2021年10月3日 礼拝説教「前に向かって一歩ずつ」

聖書: ピリピ人への手紙 3章12~16節

Ⅰ.はじめに

 今年度の後半の最初の主の日です。「緊急事態宣言」が解除され、今日から礼拝堂に共に集まる礼拝が再開されました。この半年間の主の日(日曜日)は26回で、「緊急事態宣言」が出されていた期間が長く、主の日に礼拝堂に集まれたのはわずか9回、ほぼ3分の1しかありませんでした。共に集まって礼拝できることが当たり前ではないと思わせられると共に、実際に集まって共にささげる主の日の礼拝にまさる礼拝はないと実感します。

 私たちフリーメソジスト教会は、イエス様を信じてからの成長を、「聖化」や「きよめ」と言われる恵みを大切にし、強調します。『聖書』がそのことを語っているからです。イエス様による「救い」は完全だけれども、「救い」を受けたクリスチャンは完全になったわけではありません。イエス様を信じて「救われた」のはゴールではなく、神様の子どもとされたスタートであり、そこから成長が始まります。「キリスト者の完全」とか「全き聖化」と言われる恵みも、完全なクリスチャンとされることではなく、さらに成長や成熟の余地があるものです。これらのことについての理解の整理や深まりが必要ではないでしょうか。今日は、前に向かう姿勢こそ神の子どもらしさであることをみことばに共に聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.前に向かう姿勢(ピリピ人への手紙 3章12~14節)

 『聖書』は全体が「神のことば」です。実際には約40人の人が当時のことばで書きました。その書くことばを神様が導いたという意味で「神のことば」です。『聖書』は「旧約聖書」と「新約聖書」の部分があります。「旧約聖書」にはイエス様が生まれる前、紀元前のことが書かれ、「新約聖書」にはイエス様の降誕後のことが書かれています。「新約聖書」の最初の4つは「福音書」でイエス様の生涯を伝え、次の「使徒の働き」は使徒と呼ばれたイエス様の弟子たちの働きを記しています。その次は「手紙」の部分です。最初の13通はパウロという人が当時の教会やクリスチャン個人にあてて実際に書いた手紙です。パウロはイエス様の直接の弟子ではありません。むしろ、パウロは最初、ユダヤ教に熱心で、イエス様の弟子たちを迫害していました。そんなパウロに、復活されたイエス様が現われ、問いかけ、彼はイエス様を救い主と信じて、人々にイエス様を伝えるように変えられたのでした。パウロのそのような証しを聞きたいと思えば、「使徒の働き」や彼の「手紙」のあちこちに出てきますので、探してみてください。この12~14節もそうです。神様が、自分の生きる姿勢をどのように変えてくださったかという証しで、4節から始まっています。

 12節を読みましょう。イエス様を信じる前のパウロは「完全で非難されないこと」を誇りとしていました(6節)。でも、今は「捕らえようとして追求している」(12節)という姿勢に変えられたのです。そのような生き方へと自分を捕らえたのは「キリスト・イエス」(12節)だと証ししています。パウロがイエス様を捕らえたのではありませんでした。私たちも同じではないでしょうか。ヨハネ15:16を読んでみましょう。イエス様が私たちを選び、弟子として任命してくださいました。何を追求するためでしょうか?13~14節を読みましょう。パウロが言う「ただ一つのこと」とは何でしょうか?4節からを読むと、それは、イエス様に似ることではないでしょうか。私たちがイエス様を信じて、その弟子とされたのも、師であるイエス様に似るためではないでしょうか。そのために忘れる必要があるのは、「うしろのもの」(13節)です。この「うしろのもの」とは単に「過去のこと」ではありません。「過去の思い出や経験」ではありません。パウロが「キリストのゆえに損と思うように」(7節)なったと言っている、イエス様を信じる以前の自分にとって得だったもの、自分が頼りにしていたものこそが「うしろのもの」です。では、「前のもの」と言われている、ワクワクして胸がときめくようなものとは何か?年を重ねるとそういうことは少なくなるかもしれません。「胸のときめき」と「動悸が激しい」のとは見分けがつきにくいでしょうか!? 幾つになっても期待で胸が高鳴るのは「神が上に召してくださるという、その賞」(口語訳では「神の賞与」(ボーナス))(14節)です。自分がイエス様に似ることを追求し、神様が上に召してくださる賞与に向かって身を伸ばす、それが神様の子どもの姿勢なのです。

2.あなたの次の1歩は?(ピリピ人への手紙 3章15~16節)

 神様の子どもとして、イエス様に似ることを追求して進むために、私たちの次の一歩は何でしょうか?15節を読みましょう。「ですから、大人である人はみな、このように考えましょう」(15節)と勧められています。『聖書』は「神の子ども」にも、「幼子」の状態、成熟した「大人」の状態など、成長の段階があると述べています。「幼子」は自分のことだけで精一杯で、他の人に配慮する余裕がありません。私たちはイエス様を信じて間もない時のねたみや争いをしがちな「キリストにある幼子」(Iコリント3:1)の状態から、他の人やこれからイエス様を信じる人に配慮し、イエス様を信じる他の人を育てることができる「大人」の状態へと変えられていくのです。あなたは、神様の子どもとして、どのような状態でしょうか?神様は、今の自分の状態に気づかせてくださいます。

 16節を読みましょう。今の自分の状態に気がついたなら、そこから「進むべきです」(16節)。私たちそれぞれの、次の一歩は何でしょうか?イエス様に似た者とされるためには、私たちの目と心を、イエス様へと向ける必要があります。イエス様はどのようなお方か?ピリピ2:5~8を読みましょう。皆が上を目指し、豊かさを追求する世の中にあって、下を目指し、手放していかれたお方ではないでしょうか。私たちが、このお方に似ることを願うならば、次の1歩は何でしょうか?聖餐を受けることは、私たちの目も心もイエス様に向け、イエス様とひとつとされるときですから、イエス様に似た者とされるのに有益です。次の1歩として、例えば、「食事の前にお祈りする」「1日に1回は『聖書』を読む」「聖餐の礼拝には出席する」「礼拝後、教会の誰かと話す」など、やってみることができます。

Ⅲ.むすび

 イエス様に似るとは、今の自分から変えられていくことです。私たちは、年齢を重ねるにつれ、変わることを望まないかもしれません。しかし、ある人が「私たち神の子どもは、永遠を生きる者としてはまだ1歳の段階にも達していない」と言われたことを忘れられません。まだまだこれから先の成熟があります。神様と自分との関係は、日々成長します。人は特に召される直前に急速に成熟されるように感じます。イエス様が再び来られてから、復活のからだをいただき、より自分らしい本来の自分の姿へと変えられていく恵みも楽しみです。神様の子どもとして、変えられやすい者とされましょう。

(記:牧師 小暮智久)