2021年8月29日 礼拝説教「神様とは?」

聖書: 創世記  48章8~22節

Ⅰ.はじめに

 8月最後の主の日です。この8月は例年になく雨が多く、また梅雨に入ったのかと思わせる日々も続きました。日本のみならず、世界各地で豪雨や異常な暑さなども起きています。これまではよく「異常気象」と言われましたが、最近では「気候変動」と言われるようにもなりました。この先どうなるのかと危機感を覚えることもあるのではないでしょうか。紀元前1400年から西暦100年までの約1500年間に、時代も場所も異なる約40人が打合せなく書いたのに、内容がバラバラでなくテーマが一貫している古代の文書があります。それは『聖書』と呼ばれる本で、この地球と動植物、その環境やそこに住む私たち人間を造られたお方がいると語り、地球の環境の管理やお世話を、私たちに人間を信頼して託したのは、この造り主である神様なのだと告げています。今の地球環境の状態は、神様の委託に対して私たち人間がどう応答してきたかの結果だと言えるのではないでしょうか。

 私たちの教会では、『聖書』の最初の文書である「創世記」を2004年から、礼拝で少しずつ共にお聴きしています。今日は前回7月25日の続きで「創世記」の48章の終わりの部分です。『聖書』の章や節の区切りは、印刷技術の発明後、便宜的に付けられたもので、最初は章も節もありませんでした。しかし、人が付けた区切りであっても、今日この箇所を、それぞれの境遇にある私たちが、共に読むのは決して偶然ではなく、造り主である神様の支配と摂理の中でのことだと言えるでしょう。神様が語られることを聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.主語は神(創世記 48章8~14節)

 この「創世記」は天地創造、人間の創造と最初の罪などを語り、神様が私たちを罪と滅びから救い出すために、アブラハムという人を選ばれたと述べます。神様は、そのアブラハムの子孫を神様の民とし、そこから全世界の人々に、罪と滅びからの救いという祝福が広がっていくことを約束されました。今日お聴きしたのは、アブラハムの孫ヤコブという人が高齢になり、故郷の西アジアのカナンを離れてエジプトで死の床についていた時、自分の子ヨセフが孫のマナセとエフライムを連れてやって来た場面です。

 8節を読みましょう。「イスラエル」とはヤコブに神様が与えられた名前で、のちに民族の名前となりました。彼は「この者たちはだれか」と聞きます。息子ヨセフはどう答えたか?9節を読みましょう。彼は単に「私の子たち、あなたの孫たちですよ」と言いませんでした。「神が」と主語を「神」として答えたのです。息子ヨセフが子どもたちを近寄らせると、父は抱き寄せます(10節)。父であるイスラエルはどう言ったか?11節を読みましょう。ここでも「私がおじいちゃんだよ」と自分を主語とするのではなく、「今こうして神は」と「神」を主語とし、孫に合わせてくださったのは神なのだと言ったのでした。12節を見るとヨセフの子たちはヤコブのひざの上にいたとわかりますが、このひざの上に乗せるのは自分の子ども(あるいは養子)として受け入れる(48:5)という当時のしるしだそうです。

 「主語は神」であることは、何を意味するのでしょうか?自分の人生で、神様は脇役ではなく、主役だということを意味するのです。自分の計画や願いがあって、それをかなえるために脇役として神様がいるのではありません。神様が、私たちを生かし、導いておられ、私たちは与えられた役割や使命を果たしていくのです。私たちが今置かれている現実も、住む場所や自由になる時間も、ただの偶然ではなく、「主語は神」であり、神様が主役として、今の自分のそのままの状況を通して、神様は今も働こうとしておられるのです。

 ヨセフは二人の子を祝福しようとする父の右手側に長男マナセを、左手側に次男エフライムを近寄らせますが(13節)、不思議なことに父イスラエルはわざわざ手を交差させ、右手を次男エフライムの頭の上に、左手を長男マナセの頭の上に置いたのでした(14節)。

2.自分にとっての神(創世記 48章15~22節)

 ヤコブは、二人の孫を自分の子として受け入れ、祝福する際に、神様に呼びかけています。この呼びかけのことばは、ヤコブにとって神様とはどんな方かをよく表わしています。私たちがお祈りで、「神様をどう呼ぶか」も、自分にとって神とはどんな存在かを表わしているのではないでしょうか。ヤコブ(イスラエル)にとっての神とは、どんなお方なのか?

 ①祖父と父が、「その御前に歩んだ神」です(15節)。「御前」とは、素の自分を見ておられ、隠れられず、最も身近で、自分の本当の姿を明らかにするお方ということでしょう。

 ②「私の羊飼いであられた神」です(15節)。ヤコブの職業は羊飼いでした。その彼が自分を羊にたとえたのです。羊は目が悪く、道に迷いやすく、倒れると自分で起き上がれず、はえが飛び回っていると横になれず、空腹や群れの他の羊との緊張関係にあると眠れない動物です。神はヤコブにとって、自分を導き、守り、安心させ、養ってくださるお方です。

 ③「わざわいから私を贖われた御使い」(16節)です。『聖書』では「御使い」が「天使」を指すこともあれば、人間の姿をとられた「神」を表わす場合もあります(32:24-30)。『聖書』は天使が存在すると明確に語っています。イエス様を信じた人には必ず天使が共にいて(使徒12:15)、神様の御顔をいつも見ています(マタイ18:12)。私たちが何か奇跡的に助かった経験があるなら、天使のおかげかもしれません。しかし、ここでの「御使い」は「神」を指す表現で、「贖い」とは「身内の者が困った時に保護する」「代価を払って買い戻す」という意味です。神様はヤコブにとって、自分が困難な時にまるで身内のように保護してくださるお方でした。神様は今の私たちをまるで身内であるように愛し、救い主イエス様をこの世に送り、イエス様が私たちの罪のために十字架で死んでくださるという代価を支払われ、イエス様を信じる者を罪と滅びから買い取って自由にしてくださるお方なのです。

 父や祖父が御前に歩み、自分の羊飼いであり、まるで身内であるかのように愛してご自身のものとしてくださる、このような神が、「この子どもたちを祝福してくださいますように」(16節)とヤコブは祈りました。ここでも、「主語は神」です。自分が祝福を継承させるのではありません。神様が次の世代の人々に、救いを、祝福を、使命を、継承されるのです。私たちはそのために祈り、神様が働かれやすいような脇役とされましょう。神様が主権者として働かれるのを、私たちは邪魔したり、妨げたりしてはいないでしょうか?

 このあとヨセフは父が長男と次男を間違えていると思い(17節)、指摘します(18節)。しかし、父イスラエルは、次男が長男よりも大きな民となると預言し(19節)、弟エフライムを兄マナセの先にして祝福のことばを述べたのでした(20節)。ここでも「主語は神」です。しかも、二人の子の名前は、「エフライムやマナセのように」という格言にまでなるのです。

Ⅲ.むすび

 神様とはどんなお方か?『聖書』から知識として知るだけでなく、ヤコブのように日常の中で経験的に知りましょう。今自分が生かされている日常生活の場と状況を、ただの偶然と考えず、主語を「神」として見つめ直し、神様が働かれる場所としてゆだねましょう。私たちがそれぞれに、次の世代のための祝福の源とされますように。

(記:牧師 小暮智久)