2021年6月27日 礼拝説教「天と地の神の民」

聖書: 創世記  47章27~31節

Ⅰ.はじめに

 今日は6月最後の主の日です。今年の半分が過ぎようとしています。「まだ半年」か、それとも「もう半年」か、どのように感じておられるでしょうか。いずれにせよ、この半年を振り返り、今年の後半に思いをはせて静まるにはよい時ではないでしょうか。そのような区切りの時に、主の前に共に集まる礼拝を、再開できた恵みを感謝しています。

 私たちの教会では、イースターやクリスマスの前後など教会の特別な季節以外の時には、新約聖書では「ルカの福音書」を、旧約聖書では2004年から「創世記」を、礼拝で少しずつ共にお聴きし、神様のみことばに養われています。「創世記」を前回お聴きしたのはイースター前の受難節(レント)に入って最初の日曜日の2月21日で、今日は久しぶりにその続きのみことばに耳を傾けています。「創世記」は天地創造、人間の創造、人間の最初の罪とその結果などを語り、神様が私たちを罪と滅びから救い出してご自分との関係を回復するためにアブラハムという人を選び出したことを告げています。神様は、そのアブラハムの子孫をご自分の民、神様の民とし、そこから全世界の人々に祝福が、罪と滅びからの救いが広がっていくことを約束されました。「創世記」は、高齢のアブラハムに約束の子として生まれたイサク、その子ヤコブ、その子ヨセフなど12人の息子たちという神様の民の先祖たちの人生を取り上げ、今日お聴きしたのはその終わりにさしかかる部分です。

 神の民は、地上の私たちだけではありません。先ほど讃美歌191番4節で「去りし民と」と歌ったように、先に天に召された人々も神の民です。そのようなつながりの中で、地上の神の民である私たちに主から求められていることは何か、みことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.エジプトでの神の民(創世記 47章27~28節)

 「さて、イスラエルはエジプトの国でゴシェンの地に住んだ」(27節)とあります。「イスラエル」という名は今では、国や民族の名前として使われることがほとんどですが、ここでの「イスラエル」はヤコブという人に神様から与えられた名前です。このヤコブの祖父アブラハムは神様から「わたしが示す地に行きなさい」(12:1)と命じられ、神様から与えられたのが死海と地中海の間を中心とするカナンの地でした。そのアブラハムの孫のイスラエル(ヤコブ)がその晩年、神様の約束の地ではなく、エジプトに住んだのはなぜか?

 それは、大飢饉が起きたからです。紀元前1875年前後のことです。ヤコブの息子たちがねたみから売った兄弟のヨセフが、なんとエジプトで総理大臣になっており、ヨセフがこの非常事態に父と兄弟たちをカナンから食糧のあるエジプトに呼び寄せたのでした。彼らは、異教の地エジプトでどう過ごしたか?「多くの子を生み、大いに数を増やした」(27節)とあります。彼らは天地を造られたまことの神、主を礼拝し続けたことでしょう。そして、神様の約束(46:3)の通り、子孫が増え大いなる国民とされていったのです。神の民はどんな環境でも「神の」民として歩むことが求められています。ヤコブがエジプトで生きた年数は17年(28節)。ヨセフが兄たちに売られたのが17歳の時(37:2)でしたから、かつてカナンで共に過ごしたなつかしい年月と同じだけ、ヤコブはヨセフと過ごせたことになります。厳しかったヤコブの人生への神様からの慰めは豊かだったのではないでしょうか。

2.神の民のこれから(創世記 47章29~31節)

 「イスラエルに死ぬ日が近づいたとき」(29節)とあります。この「イスラエル」もヤコブのことです。私たちは、死ぬ日が近づいたと実感するほど高齢でなくても、あるいは重病でなくても、身近な人の死やこのたびの疫病や災害の時など、自分が死ぬということを意識することはあるでしょう。そのような時、私たちは何を考え、何をするのでしょうか?

 ある学者は「死期を迎えたイスラエル人は、自分がこれから行こうとしている未知の世界へはあまり関心がなく、むしろ神の民の将来に関心があるようである」と述べています(キドナー,『ティンデル聖書注解 創世記』,p.265)。ヤコブがこのあとヨセフに話すことも、自分の子孫がかたちづくる神様の民の将来を思い、そのために自分ができることは何かを考えたゆえではないでしょうか。29~30節前半を読みましょう。「おまえの手を私のももの下に入れ」(29節)という独特な動作は、当時の西アジアの厳粛な約束のやり方だったようです(24:2参照)。どんな約束か?一つは禁止の約束です。「私をエジプトの地には葬らないでほしい」(29節)。外国とは言え、時がたてば住み慣れるでしょうし、エジプトの地に葬る方が楽かもしれません。しかし、ヤコブは神の民として、それを禁じたのです。もう一つは場所の指定の約束です。「エジプトから運び出して、先祖の墓に葬ってくれ」(30節)。先祖の墓とは、神様が与えてくださった約束の地カナンのマクペラという所にあるアブラハムや妻サラ、イサクや妻リベカの墓です(23:19,25:9,49:30-31)。なぜ、彼はそう願ったのか?それは自分が、先に召された天にいる神の民と同じ神の民のひとりであることを示すためであり、次世代の神の民が、エジプトに住んでいても「約束の地」を忘れず、神の民としての歩みが継承されていくことを願ったからではないでしょうか。ヤコブは自分の死を「私が先祖とともに眠りについたら」(30節)と表現しています。自分の死は孤独な死ではなく、天にある「神の民」のアブラハムたちなど先祖と共に眠りにつくことなのです。

 ヨセフは父の願いを受け入れます(30節)。父はさらに「私に誓ってくれ」(31節)と願います。これは何を意味するのか?「ヤコブは」でなく「イスラエルは」と繰り返されているのも印象的です。次世代の、将来の神の民が、神様の約束の地と約束のみことばを忘れずに神の民として歩み続けてほしいという願いの強さを意味しているのでないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 天にある「神の民」であるアブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)の子孫として、救い主イエス様はお生まれになり、私たちのために十字架で死なれ、葬られ、3日目に復活されました。このイエス様を自分の救い主と信じ、自分の人生に受け入れる人はすべての罪を赦され、神様との交わりを回復されて神様の子どもとされ、神様の民とされます。神様の民をイエス様は「教会」と呼び、洗礼を受けた人は具体的な教会の一員とされます。

 私たちは毎週「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、・・・を信ず」と使徒信条で告白します。教会を信じるとは、教会が過去、現在、将来にわたって神のものであると信じることです。天にある「神の民」を思い、自分が天と地との両方の大きな「神の民」全体の一員とされていることを思う時、ヤコブのように私たちも、神の民の将来のことを思わずにはいられないのではないでしょうか。今の自分たちのことだけでなく、教会の将来のために、今何ができるか祈り考えましょう。ライブ配信があれば集まらなくても礼拝できる今だからこそ、天にある「神の民」を思いつつ、地上の「神の民」が共に集まって礼拝し共に聖餐を受け、主にあるお互いの交わりを大切にしましょう。また、自分の身近な人々に、自分と同じ「神の民」とされてほしいとはっきりと伝え、祈りましょう。

(記:牧師 小暮智久)