2021年3月28日 礼拝説教「十字架とキリスト」

聖書: ルカの福音書 23章26~38節

Ⅰ.はじめに

 2020年度最後の「主の日」を迎えました。昨年4月からの1年間はどんな1年だったでしょうか?様々なことがあったと思いますが、様々な場面で新型コロナウイルスの影響を受け続けた1年であったように思います。あたりまえのように教会に集まり、皆で大きな声で讃美をして礼拝をささげ、係の方がうどんを作り、皆でおいしくいただきながら楽しく自由におしゃべりすることが、決してあたりまえではなかったと身にしみて感じた1年でもありました。これまでしてきた様々なことを、なぜ、何のために、この状況の中で、どうしたら安全にできるかと問われた1年でもありました。その中で全世界のキリスト教会は今日から「受難週」を迎えます。それは、十字架に向かわれたイエス様を見つめ、思いめぐらす1週間です。コロナ禍で様々なことが問われたとするならば、キリストはなぜ十字架にかかられたのか、そのことと今の自分とはどんな関係があるのかなどを問い直すことは、この困難な時に自らのあり方の指針をもたらす意味をもつのではないでしょうか。

Ⅱ.みことば

1.十字架を負って(ルカの福音書 23章26~31節)

 「十字架とキリスト」という説教題をつけました。「十字架」と「キリスト」とは本来そう単純に結びつかないことを考えるためでもあります。なぜなら、「十字架」とは約2000年前のローマ帝国の死刑の方法であり、「キリスト」とは救い主を意味するからです。今の私たちが考えても、救い主が死刑に値する罪を犯して「十字架」で処刑されるのは考えにくいのではないでしょうか。しかも、当時のユダヤの人々にとって「キリスト」とは「旧約聖書」で約束されていた「メシア(メサイア)」で、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれる王というイメージで、十字架による死刑とは結びつかないものだったのです。

 人々の「キリスト(救い主)」への期待の中で、イエスというお方はユダヤの都エルサレムで歓迎を受けます。人々が「しゅろの枝」(ヨハネ12:13,新改訳2017では「なつめ椰子の枝」)を持って歓迎したのが日曜日、「しゅろの主日」と呼ばれ、今年は今日です。イエス様がどんな1週間を過ごされたのか、「週報」の今週の『聖書』の通読箇所でそれぞれの曜日の出来事を読めますので、ぜひお読みください。ユダヤの指導者たちの策略で、罪のないイエス様が神への冒とく罪とローマの法律では反逆罪に、言わばでっち上げられ、死刑を宣告されたのが金曜日。当時の十字架刑では、死刑囚が自分の十字架を背負いました。徹夜の裁判とむちで打たれ、衰弱されたイエス様の代わりに十字架を負ったのは誰か?26節を読みましょう。それはシモンというクレネ人(北アフリカ出身の人)。本来ならば、弟子が十字架を負うはずです。ルカ9:23,14:27を見ましょう。しかし、弟子たちは皆逃げて誰もいません。十字架を負ってイエス様について行くとは、今の私たちにとって何を意味するのでしょうか?

 「十字架の道行き」と言われるこの場面で、27~31節の場面は「ルカの福音書」だけにあります。「嘆き悲しむ女たち」(27節)がどんな人々なのか、「ガリラヤからイエスについて来ていた女たち」(49節)かもしれませんし、葬式の泣き女の一団かもしれません。もし泣き女たちならば、もう処刑は済み葬式が始まったといやがらせをした女性たちということになります。その女性たちにイエス様はどうされたか?28節を読みましょう。29節はどういう意味か?脚注の引照箇所の21:23を見ると、それほどの苦難の日が来るということだとわかります。30節は何を意味するか?脚注のホセア10:8を見ると神の審判があまりに厳しすぎるので、崩れた山の下敷きで死んだ方がましだと人々が言うほどだという意味だとわかります。31節の「生木」と「枯れ木」とは何を意味するのか?直接には「生木」である罪のないイエス様が十字架刑に処せられるのなら、「枯れ木」であるこのエルサレムの滅亡はどんなに恐ろしいことかという意味と思われます。幅広く解釈すれば、「生木」であるエルサレムに滅亡の審判がくだるのなら、世の終わりには「枯れ木」である全世界の人々にどんな恐ろしい審判がくだることかという意味にも読めるでしょう。いずれにせよ、イエス様はここで、神様のさばきの恐ろしさを警告し、人々を悔い改めに招かれたのです。

2.十字架の上で(ルカの福音書 23章32~38節)

 十字架刑は、両手を横木に、両足を縦の木に太い釘で打ち付け、垂直に立て、じわじわと弱らせ、最期は呼吸困難で死に至らせる残酷な処刑法です。しかし、『聖書』は残酷さよりもその意味を伝えるためでしょうか、淡々と述べています。イエス様は他の死刑囚と共に犯罪者として扱われ処刑されました(32~33節)。十字架の上でイエス様はどうであったか?34節を読みましょう。十字架上の第1声はこれでした。「父よ」とは神様への呼びかけです。「彼ら」(34節)とは誰か?自分を十字架につけたローマ兵、策略により自分を死刑にしたユダヤの指導者たち、彼らにあおられて「十字架につけろ」と叫んだ群衆もそうでしょう。イエス様に無関心であった時の私たちひとりひとりも含まれるのではないでしょうか。「お赦しください」(34節)と祈られました。ご自分を十字架につけたすべての人々の罪の赦しを祈られたのです。つまり、直接イエス様を十字架につけた人も、イエス様と無関係に生活するのだと間接的に十字架につけた人も、神様に対する罪が赦されるためにイエス様は十字架につけられたのでした。「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(34節)と言われます。ユダヤの指導者は本物のキリストを十字架につけたとはわかっていませんでした。にせのキリストを処罰したのだと考えていたでしょう。取税人や罪びとと食事をするイエスは、自分が考えるキリストとは全く合わないから、キリストではないとわかると彼らは考えたかもしれません。しかし、自分はわかっている、自分は正しいと考えるあり方に彼らの罪があるのです。一言で言えば「自己中心」。「神を排除する自己中心」という私たちの罪の身代わりに、イエス様は十字架にかかられたのです。

 十字架の下で人々はどうだったか?「自分を救わない無力な救い主だ」とあざ笑いました(35~37節)。これらのあざけりは当時だけでしょうか。「十字架で死んだ救い主を信じても何も良いことはないよ」と言う人々は今もいるかもしれません。あざけられているのは私たちではなく、イエス様です。彼らは、イエス様を信じる人が災いにあうと「ほーら、だから言ったじゃないか」とあざ笑うかもしれません。そんな時、私たちはどうするでしょうか。自分の十字架を負ってイエス様について行く意味は、今も問われているのです。

Ⅲ.むすび

 罪のないキリスト(救い主)であるイエス様が十字架にかかられたのは神を排除する自己中心の私たちの身代わりとなるためでした。イエス様をキリストと信じ受け入れる者は皆、罪を赦され、神様の家族とされ、イエス様を信じるほかの人々とのつながりの中で、十字架を負ってイエス様について行きます。シモンのように十字架を負わされるとは今の自分にとってどんなことなのか、礼拝後の短い時間に分かち合いましょう。

(記:牧師 小暮智久)