2021年3月7日 礼拝説教「イエス様が主である生活」
聖書: ルカの福音書 6章 43~49節
Ⅰ.はじめに
今日は、感染対策をしつつ久しぶりに集まり、神様を共に礼拝できる恵みを感謝します。
私たちの教会の礼拝では2017年5月から「ルカの福音書」を共にお聴きし、先ほどは前回1月24日の続きの所をお聴きしました。6章20節からイエス様はご自分を信じる人の生活や人間関係のあり方などを語られています。この「ルカの福音書」を読んだと思われる初代の教会の人々には2つの問題があったようです。一つは、口先で「主よ、主よ」と言う「にせ教師」が教会に入り込み、「神の宮」とされた教会員をつまずかせてしまうという問題です(Iコリント3:10~17)。もう一つは、「主」の名を使っていやしなどの奇跡を行ない(マタイ7:21~23)つつも、「わたしの言うこと」(6:46)、神のみこころを行なわない、つまり愛を行なわない人々がはびこったという問題です(Iコリント13:1~3)。今の教会はどうでしょうか?口先だけで「主よ、主よ」と言い、神様からの愛がなく、自分だけを正しいとするなら、私たちはお互いにさばき合い、主にある交わりはこわれてしまうでしょう。そうならないために、私たちはどのような生活の仕方を身に着けたらよいでしょうか?
Ⅱ.みことば
1.木と実のたとえ(ルカの福音書 6章43~44節)
イエス様は、今日の箇所のすぐ前で「ちり」と「梁(はり)」、小さなおがくずと太い丸太を対比させて話されました。イエス様を信じる人は、他の人の間違いを指摘し、教える前に、自分のことが見えていないことに気づく必要があるとイエス様は言われました。自分の姿が見えていれば、余計なことを言って、人を傷つけ、つまずかせることはなかったかもしれません。イエス様を信じる自分がどんな人であるかによって、自分の口から出てくることばが変わり、そのことばが他の人を倒すか立たせるかという結果が変わってきます。
43節を読みましょう。「良い木」「悪い木」とは、イエス様を信じる自分のことです。「良い実」「悪い実」とは、自分がもたらす影響のことです。「良い木」であれば、混乱やつまずきという「悪い実」、悪い影響を周囲にもたらすことはありません。私たちは「良い木」でしょうか?「悪い木」でしょうか?その見分け方は何でしょうか?44節を見ましょう。「木はそれぞれ、その実によって分かります」とイエス様は言われました。自分が他の人をさばいたり、批判したりする人なら、そのことばによる影響が、たとえば、言われた人が教会に来られなくなったり、争いが起きたりという「実」として現われるでしょう。私たちはイエス様に結ばれて「良い木」とされることが求められています。イエス様によって「良い木」とされれば、「良い実」が結ばれないことはあり得ません。
2.倉のたとえ(ルカの福音書 6章45節)
イエス様はとても幅広い分野のことを話題にしておられるなあと感じます。それだけ、様々なことに関心をもって過ごしておられたのではないでしょうか。先ほどは「木と実」という植物の世界を取り上げたたとえでしたが、次は「倉」が登場します。日本語の「くら」には「倉」と「蔵」という二つがありますね。どう違うのでしょうか?どなたか調べてわかったら、教えてください。私の手元の学研の国語辞典には「倉」は「広く物品をたくわえておく建物」、「蔵」は「大事なものを隠ししまう建物」とありました。ここでは「物をたくわえておく建物」の方の「倉」ですね。45節を読みましょう。
先ほどの「木と実」のたとえと似ています。自分の「心」は、物をたくわえる倉のようなもので、「口」は心に満ちていることを話すのだとイエス様は言われました。つまり、私たちの口から出ることばは、心という「倉」に何があるかをあらわしているのです。自分の口から人をさばいたり、批判したりすることばが出てくるとすれば、心という「倉」には自分が正しいことを示したいとか、自分が一番になりたいという願いがいっぱいあるのかもしれません。それは、イエス様の心に満ちている「愛」とは違うものです。私たちが、「良い物」を「良い倉」から出す「良い人」になるにはどうしたらよいのでしょうか。
3.土台のたとえ(ルカの福音書 6章46~49節)
ここにイエス様を「主よ」と呼ぶすべての人に対する問いがあります。46節を読みましょう。私たちはイエス様を信じてクリスチャンになります。しかし、その時に『聖書』が全部わかったわけでも、敵であっても愛せるようになった訳ではありません。罪と滅びからの救いのためには、イエス様を救い主と信じるだけで充分です。しかし、イエス様を信じるとは、イエス様が言うことを行なうようになることを含んでいるのです。それは神様の子どもとしての成長です。『聖書』を学ぶだけでは成長に偏りが生じ得ます。この成長は、生きておられる神様を相手とし、生きた人を相手とする「愛」を身に着けていくものだからです。それは「教会」という神様の子ども同士の集まりの中で育まれる成長です。
イエス様はここでは、「建築」にたとえてご自分のことばを聞いて行なう人を描かれました。48節を読みましょう。今週11日は東日本大震災から10年となる日です。家をどんな所にどう建てるかによって、あの日の被害が大きく違ったでしょう。たとえ話は津波でなく洪水ですが、イエス様のことばを聞いて行なう人とは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えた人に似ていると言うのです。聞いても行なわない人はどうでしょうか?49節を読みましょう。子どもの頃、実家の裏の雑木林で、友だちと「基地」という、いわば掘っ立て小屋を作って遊んだことがあります。棒やら木の板やらダンボールなどを拾って来て、地面に柱を建て、板で壁や屋根を貼り、1畳ほどのスペースを作り「基地」と呼びました。上級生が作った「基地」との「戦い」があったりした楽しい思い出があります。それはまさに「土台なしで地面に」建てたもので、雨や風ですぐに壊れてしまいました。
せっかくイエス様を信じたならば、ただ「主よ、主よ」と言うだけでなく、イエス様のことばをよく聞いて、自分の心を深く掘り下げ、イエス様に主となっていただくという土台をしっかりと据えて生活してはいかがでしょうか。イエス様が主となってくだされば、私たちの心は整えられ、神様と人とを愛する愛が与えられ、良い実が結ばれていきます。
Ⅲ.むすび
イエス様を信じたということは、イエス様が主である生活をすること、イエス様の言うことを聞き行なうことです。それは窮屈ではなく、真の自由です。しかし、自分の力ですると苦しくなります。「出発点は神様だ」と覚えましょう。Iヨハネ4:10を読みましょう。まず神様が私たちを愛しイエス様をお送りくださいました。イエス様は私たちのために十字架で死なれ、3日目に復活されました。このイエス様が私たちの内に住まわれ、自分の生活で主となっていただき、同じイエス様を主とする神様の子どもたちとの関わりの中で励まされ、鍛えられ、岩の上に土台を据えた生活をしていきましょう。
(記:牧師 小暮智久)