2020年12月27日 礼拝説教「主よ、いつまで」
詩篇 13篇1~6節
Ⅰ.はじめに
この1年は、私たちひとりひとりにとって、それぞれにどのような1年だったでしょうか?1年前には予想もしなかった新型コロナウイルスと共に過ごすことになった日々の中で、どんなことを感じたでしょうか。つらかったこと、気を遣ったこと、何か新しく気がついたこと、うれしかったこと、悲しかったことなどをすぐに思い出す方もおられるでしょう。そのひとつひとつを神様の前で受けとめ、どの場面でも神様がそこにも共におられたことを確認できたら、それは神様からの恵みではないでしょうか。一方で、受け止め切れないこと、いまだ答えがなく、解決していないことも、私たちそれぞれにあるのではないでしょうか。それについては、自分なりにはっきりとした「問い」のことばにして、神様に祈ってみてはどうでしょうか。『聖書』には問いかけのことば、応答を求める「問い」がたくさんあります。今日は、それを含む一つの「詩篇」を共に聴きましょう。
Ⅱ.みことば
1.問い (詩篇 13篇1~2節)
この詩篇は「主よ、いつまでですか」(1節)から始まります。「新改訳2017」の脚注の①②はこの表現が哀歌5:20,ハバクク1:2にもあることを示しています。しかも、「いつまで」ということばが2節までに計4回も繰り返されているのが印象的です。表題は「指揮者のために。ダビデの賛歌」です。この表題は、この詩篇が、紀元前1004年頃にイスラエルの統一王国の王となったダビデという人が作った神様への讃美の歌だと示しています。「讃美」というと「神様、あなたをほめたたえます」という内容をイメージしますが、「主よ、いつまでですか」という問いも、「讃美」にはあってよいのだと気づかされます。
私たちが「いつまでですか」という問いを発するのは、どのような時でしょうか?それは、つらいことなどが続いていて、しかも見通しがつかない時ではないでしょうか。気持ちとしては、将来に希望がもてないという嘆きでしょうか。ダビデはこの時、神様が自分を「お忘れになる」、御顔を「お隠しになる」(1節)と、自分が神様に見捨てられたと感じていて、それがいつまでですか、と問いかけています。「いつまで 私は自分のたましいのうちで」(2節)ということばには、人々からも忘れられ、あるいは親しい友とも会えない状況で、自分ひとりだけで思い悩んでいるという「孤独」が表現されているのではないでしょうか。そして、彼の「心には一日中悲しみがあり」(2節)、自分の上におごり高ぶる「敵」(2節)の存在が暗い影を落としています。この「敵」とはダビデを迫害する者、あるいは何らかの病気、それに伴う死への恐れかもしれません。今の私たちにとっては、コロナウイルスが「敵」と思えるかもしれません。ダビデの賛歌、それは彼の祈りでもあります。今の私たちも見通しがつかない困難な時、「主よ、いつまでですか」と祈ってよいのです。
2.願い (詩篇 13篇3~4節)
「主よ、いつまでですか」という問いが、たとえ「もう、これ以上うんざりです」というような不平不満になったとしても、それは、神様に対する「願い」のことばとなり得ます。「私に目を注ぎ 私に答えてください」(3節)。先ほどの「あなたは私を永久にお忘れになるのですか」(1節)という切実な問いを、ダビデはこのような願いのことばにして、神様に訴えたのでした。「目を注ぎ」(3節)も興味深い表現です。母親が目を合わせてくれると安心する幼子のように、神様が自分にそのまなざしを注いでくださるようにと願ったのです。「私の目を明るくしてください」(3節)。神様と目が合うと、自分の目も輝くのです。
この願いは、何のための願いでしょうか?「私が死の眠りにつかないように」(3節)ということばを聞くと、単にダビデが死にたくないということだけのための願いとも思えます。しかし、次の行を読むとどうでしょうか。4節を見ましょう。「私の敵」とは神様に逆らうものだと思われます。その敵が「彼(ダビデ)に勝った」というと、ダビデの信じる神様に勝ったと言っているようにも聞こえてしまいます。また、ダビデが、彼の信仰が、ぐらつくことを「逆らう者が喜ばないように」(4節)とも言っています。つまり、「私に目を注ぎ 私に答えてください」と願う目的は、ダビデ自身のためでもありますが、それだけでなく、ダビデを通して神様があがめられ、その栄光があらわされるためなのです。
今の私たちも「お祈り」によって、神様に自分の願いを訴えることができます。どんな願いをしても自由です。ただ、ダビデのように、自分のためだけでなく、自分を通して神様の存在が証しされ、その栄光があらわされるために、願いを訴える者とされたいです。
3.告白 (詩篇 13篇5~6節)
4節と5節との間に、何かがあったのでしょうか。「主よ いつまで」と問いかけたこの詩篇の最初とは、ことばの調子が明らかに違います。この部分をどう理解したらよいでしょうか。「私は」「私の心は」「私は」(5,6節)とダビデは、自分の内側にあるものを態度にあらわしています。私たちは毎週の礼拝で「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と、「使徒信条」と呼ばれる、4世紀の古代の教会にさかのぼれる信仰の告白をします。ちょうどそれと同じように、ダビデは神様に対して信仰を告白していると言えるでしょう。
ダビデの告白は「私は・・・拠り頼みます」(5節)、「私の心は・・・喜びます」(5節)、「私は・・・歌います」(6節)という態度の表明です。「拠り頼む」、何を拠り所として信頼するかと言えば「あなたの恵み」(5節)、何を喜ぶかと言えば「あなたの救い」(5節)、誰に歌うかと言えば「主に」(6節)向かって歌うのだと、自分の意志を、言わば決意として言い表しています。4節と5節との間に、何らかの神様からの答えがあったのでしょう。神様が自分に目を注いで、自分を見てくださったのをダビデはこの時、実感できたのではないでしょうか。「主が私に良くしてくださいましたから」(6節)という表現は、今日の礼拝の招詞で読まれた「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103:2)とも重なって響いてきます。「主よ いつまで」という問いと、「主が私に良くしてくださった」という証しはどう結びつくのか。現実の困難な状況はすぐには変わらないかもしれない。しかし、困難に囲まれている私たちの、うめきのような問いを聞いていてくださるお方がおられる。そのお方は生きておられ、まなざしを注いでくださる。イエス様を救い主としてお送りくださり、その十字架での死と葬りと3日目の復活により、イエス様を信じる人をご自身の子ども、神の家族、教会の一員としてくださる神様のまなざしに照らされて、私たちも「私の心はあなたの救いを喜びます」と告白できるのではないでしょうか。
Ⅲ.むすび
「主よ いつまで」と祈るダビデに親しみを覚えないでしょうか。私たちもこのように祈ってよいのです。このようなお祈りにより、主との交わりが深められることはもちろん、主にある互いの交わりもまた深められていくのではないでしょうか。
(記:牧師 小暮智久)