2022年1月1日 元旦礼拝説教「あなたを招く問い」

聖書: 創世記 3章8~9節

Ⅰ.はじめに

 コロナ禍での新しい年を、どのように迎えられたでしょうか?以前なら特に何も考えず当たり前にできたことができず、普通の日常がそうでなくなり、私たちは以前よりも、何を優先するか、ふだんの生活をどう過ごすかを、深く考えるようになったのではないでしょうか。それは、ほんとうに価値あるものや確かなものは何か、自分は何のために、誰と一緒に生きるのかを、以前よりも深く問われるようになったということでもあるでしょう。新しい年のはじめの日に、『聖書』が私たちひとりひとりに問いかけていることを共にお聴きし、思いめぐらし、先行きが見えない日々の道しるべに気づかせていただきましょう。

Ⅱ.みことば

1.あなたはどこにいるのか(創世記 3章8~9節)

 これは、神様に造られた最初の人アダムとエバが、いわゆる「禁断の木の実」を食べたあと、神様がこわくなり、身を隠した木の間で聞いた神様の問いです。8~9節を読みましょう。神様はどうして、こう呼びかけたのでしょうか。神様には彼らのいる場所がわからなかったのでしょうか。いいえ。神様は、先ほど「交読文」でお読みした『聖書』のことば通りに、すべてを知っておられるお方です。この問いの意図は、アダムとエバが隠れた所から自ら進んで出て来て、自分のしたことを正直に告白することにあったのではないでしょうか。そして、「私は、あなたのことばに背いてしまいました。ごめんなさい」とおわびして、ご自分のもとに戻って来るのを待っている神様の招きではないでしょうか。

 「ひまわり」で有名なゴッホと同じ時代に、ゴーギャンという画家がいました(1848~1903年)。ゴーギャンは、タヒチ島で49歳の時に「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」という有名な絵を仕上げます。右の方には、赤ちゃんと島の娘たち、真ん中には何の果実を手に取る男性、左の方には「死を迎えることを甘んじ、あきらめている老女」と彼自身が説明する人物が描かれています。娘を亡くし、借金を抱え、健康状態も悪化する中で描かれたこの作品には、彼の切実な問いが込められていたのではないでしょうか。私たちにも「自分はどこから来たのか 自分は何者なのか 自分はどこへ行くのか」とうめくように問い、考え込む時があるかもしれません。そのような問いが自分に浮かんでくる時、それは、わたしたちひとりひとりを生かしておられる神様が「あなたはどこにいるのか」と問いかけ、招いている時なのではないでしょうか。

2.あなたはわたしをだれだと言うか(マタイ 16章15~18節)

 これは、アダムとエバへの問いから数千年後、イエス・キリストというお方がその弟子たちに尋ねられた問いです。ちなみに、イエス・キリストとは、イエスは名前ですが、キリストとは苗字ではなく称号や肩書とも言えることばで「救い主」という意味です。先日クリスマスでその誕生を覚えたイエスというお方は、今から約2022年前に西アジアのユダヤ地方に生まれ、およそ30歳から3年間、弟子たちと過ごしました。多くの人の病気を治し、5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人を満腹にさせるなどの奇跡を行ない、ご自身がキリスト(救い主)であることのしるしを行なわれました。そのさなかに弟子たちに尋ねられたのが先ほどの問いです。15節を読みましょう。イエスは「あなたがたは」と弟子たちに尋ねられましたが、この問いへの答えはひとりひとりが各自でなすべきです。

 「このイエスというお方は、どんな方だろうか?」という問いが、自分に浮かんだことがあるでしょうか。それは、イエスがあなたに「わたしをだれだと言うか?」と問いかけられた時だったのではないでしょうか。ペテロという弟子はこの問いに「あなたは生ける神の子キリストです」(16節)と答えています。しかも、そう答えたのはペテロの努力や勉強の結果ではなく、神様が明らかにされたことだとイエスは言われました(17節)。「救い主」とは何を意味するのでしょうか?それは、アダムとエバが神様に背いて以来、私たちみなにある、神様を認められず、自分の思うように過ごそうとするあり方、自分こそが正しいとするあり方からの「救い」「解放」「回復」をもたらすお方という意味です。イエスは、このあとしばらくして十字架にかけられ、処刑されます。それは、私たちが神様に背いた結果、神様に無関心となり、「自分というもの」だけが考え方やことばや態度や行動の中心となってしまった『聖書』で言うところの「罪」の身代わりでした。イエスは死なれ、墓に葬られましたが、3日目の日曜日に復活されました。それを記念して日曜日に弟子たちは集まって礼拝するようになり、のちに全世界で休日となったのです。このイエスというお方を「あなたこそ、私のキリスト(救い主)です」と信じ、迎え入れる人は誰でも、神様に対する背きを赦され、神様のもとに帰ることができ、神様の子どもとされるのです。しかも、イエスは続く18節で「教会」の設立宣言を語られました。イエスを受け入れた人には「洗礼」を受けて「教会」の一員として過ごすことをイエスは命じられたのでした。

あなたは、イエスというお方の問いに、どうお答えになるでしょうか?

3.あなたはわたしを愛しているか(ヨハネ 21章15節)

 これは、復活されたイエスの、弟子のペテロへの問いです。「あなたは神の子キリストです」と言ったペテロは、イエスが捕らえられたあとこわくなり、「あなたも、あのイエスの弟子ですね」と人々から3回問われた時、「そんな人は知らない」と3度言ってしまったのでした。私たちもイエスを信じ受け入れたあと、自分に都合が悪い時など、ペテロと同じような経験をするかもしれません。「洗礼」を受けたあと、様々な事情で「教会」に行けなくなり、たまに行くと「久しぶり」とか言われて気まずくなり、もう「教会」をやめちゃおうかなと思うこともあるかもしれません。予告はしておられたけど、本当に復活するとは思わなかったペテロも、イエスの前で、気まずい思いをしていたのではないでしょうか。

 そのペテロにイエスは問われました。15節を読みましょう。「あなたは、・・・わたしを愛していますか」。「わたしへの愛は残っていますか」とも聞こえるように感じる問いです。イエス様は私たちそれぞれの事情をご存知です。この問いは、「わたしへの愛が少しでもあるなら、あなたはそこから歩み始めればいい」というイエス様の招きではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 「あなたはどこにいるのか」「あなたはわたしをだれだと言うか」「あなたはわたしを愛しているか」。これらの問いは、神様が私たちの現状に気づかせ、私たちをさらによいあり方へと導こうとされる神様の招きです。これらの問いに、誠実に答え、自分の今年のはじめの一歩を書いてみてはどうでしょうか。たとえば、「食事の前にはお祈りしよう」とか「『聖書』を1日1回は開いて一段落は読もう」とか「1年に1回は礼拝に行こう」など。将来や希望が見えない日々にも、神様と共に過ごそうではありませんか。

(記:牧師 小暮智久)