2021年10月17日 礼拝説教「なぜ、そうするの?」

聖書: サムエル記 第1 13章8~15節

Ⅰ.はじめに

 私たちは毎日の生活で、何かをするとき、なぜ、そうするのでしょうか?たとえば、親や先生に教えられた「良いこと」や「悪いこと」に従っているのかもしれません。または、自分の「したいこと」や「したくないこと」に従って、そうしている場合もあるでしょう。自分が毎日していることやしないように注意していることの理由は、何なのでしょうか?今日は、子どもと大人一緒の礼拝で、教会学校での『聖書』の箇所を共にお聴きしました。教会学校では今、「イスラエル王国」と言う単元で、学ぶ目標は「神を恐れて、みこころを求めて従う者となる」ことです。「神のみこころ」とは何でしょうか?神のみこころとは、神様の心であり、神様の願いや神様が命じていることなどです。私たちは「自分の考え」や「自分のしたいこと」などを基準にしている間は、神様のみこころを求めようとはしません。神の心より、自分の心を優先しているからです。自分が「良いこと」だと思うことが、必ずしも「神のみこころ」とは限りません。とすると、私たちはふだんの生活で気づかないで、神のみこころに反しているかもしれないのです。神のみこころは、どうしたらわかるのでしょうか?まず、神のみこころを知ろうと、みこころを求める気持ちが大事ではないでしょうか。神様の心に従うにはどうしたらよいか、みことばに共に聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.待てなかったサウル王(Ⅰサムエル 13章8~10節)

 「サウルは」(8節)と書かれているこの人は、今から3000年ほど前の西アジアのイスラエルという国の最初の王様です。彼は、サムエルという預言者が来るのを待っていました。なぜか?敵であるペリシテ人という外国の人たちと戦う前に、神様にささげ物とお祈りをしてもらうためでした。しかし、サムエルが来るはずの日まで7日間待ったのですが、来ませんでした。みなさんだったら、どうしますか?今なら、LINEか携帯電話で「どうしてまだ来ないのですか?」と聞くこともできますが、それもできません。何が起きたか?「それで、兵たちはサウルから離れて散って行こうとした」(8節)と書かれています。このまま戦ったら負けてしまうとみんな不安になり、兵士たちは家に帰ろうとしたのです。

 あなたがサウル王だったらどうしますか?サウル王はどうしたか?9節を読みましょう。ささげ物を自分でささげてしまったのです。実は当時、神様にささげ物をささげられるのは祭司など限られた人だけでした。サウルはささげてはいけなかったのです。彼にとってはこの時、預言者であるサムエルが来るのを待つことが神様のみこころでした。しかし、サウルは待ちませんでした。なぜか?せっかちだったからか?単にそうではなく、神様よりも自分の考えを優先したからです。自分勝手な考えで、「良いこと」だと思ったからです。

 ささげ物をささげ終えたとき、そこへサムエルがやって来ました。もう少し待てばよかったのに、と思います。さて、どうなるでしょうか。

2.サウル王の言い訳(Ⅰサムエル 13章11~12節)

 預言者サムエルは、サウル王が神様にささげ物をささげてしまったのを見て驚いたと思います。それは「あなたは、何ということをしたのか」(11節)という問いにあらわれています。サウル王の答えは、言い訳にしか聞こえません。①兵たちが自分から離れて行こうとしていたから(11節)。②敵のペリシテ人は集まっているのに、サムエルが来ていないから(11節)。③敵が攻めて来るのに、まだ自分は神様にお祈りしていないと考えたから(12節)。彼はこれらを理由にして、「あえて、全焼のささげ物を献げたのです」(12節)と言いました。サウルは「敵が攻めて来る緊急事態に、サムエルも遅れていたので、自分は正しく良いことをしたのだ」と思っていたのです。サウルは、「自分は間違ったことをしました」と認めて、あやまるべきだったのではないでしょうか。

3.主が求めている人(Ⅰサムエル 13章13~15節)

 言い訳をしたサウル王に、サムエルは何と言ったでしょうか?13~14節を読みましょう。「預言者」とは、神様から「預」かった「言」葉を語る「者」ですから、このことばも神様からサウルへの宣告だと言えます。まず「愚かなことをしたものだ」(13節)とサウルは言われます。自分ではよく考えて賢く良いことをしたと思っていたでしょうが、神様の心には「愚かなこと」だったのです。今の私たちも、自分では「賢く良いことをしている」と思っていても、神様は「愚かなことをしたものだ」と言われるかもしれません。

 なぜ、愚かなのか?「あなたは、あなたの神、主が命じた命令を守らなかった」(13節)。神様へのささげ物は当時、限られた人しかささげられないと神様は命じていました。その命令を守らなかったことが愚かだったのです。神様の命令よりも、自分の考えを優先したことが愚かだったのです。その結果は、「今や、あなたの王国は立たない」(14節)と言われ、自分が王ではなくなるということでした。「主はご自分の心にかなう人を求め」(14節)ておられます。神様のみこころにかなう人とは、どんな人でしょうか?それは、自分の考えや思いによってではなく、神様の考えや思いによって何をするかを考える人です。神様の心、みこころを求め、それを知りたいと願い、みこころに従う人です。それは、Ⅰサムエル15:22~23でも言われています。神様に従わないことは、占いや偶像礼拝の悪と同じです。神様のことばを退ける人は、神様の前から退けられてしまいます。

Ⅲ.むすび

 自分は正しく、良いことをしていると思っている人は、「新約聖書」に出てくる「律法学者」や「パリサイ人」に似ているかもしれせん。彼らは、イエス様が間違っていると決めつけ、十字架につけて殺してしまいます。しかし、実はイエス様は、自分の考えや常識が正しいと思っているために、神様を受け入れる余地がなく、神様を閉め出してしまう私たちひとりひとりの罪のために、十字架で死んでくださり、3日目に復活されたのでした。私たちは、このイエス様を自分の生活に受け入れる時に初めて、神様を恐れ、神様の心を考えるようにされます。神様の言葉である『聖書』を読んで従おうとする人に、少しずつ変えられていきます。神様は、ご自分の心にかなう人を、今も求めておられます。毎日していること、しないことを、「なぜ、そうしているか、なぜ、そうしないのか」を考え直し、神様の心にかなうのは何かを求めましょう。昔も今も、神様のみこころを求め従う人こそが、ほんとうの意味で賢い人なのです。

(記:牧師 小暮智久)