2021年8月22日 礼拝説教「救いから全き聖化へ」
聖書: コリント人への手紙 第2 6章14節~7章1節
Ⅰ.はじめに
今月は6日,9日,15日と忘れてはならない日があると先週の説教で触れたことに反響が幾つかありました。コルベ神父のことをハガキに書いてくださった方もあります。さらに今月は世界のフリーメソジスト教会にとって忘れてはならない日があります。それは明日8月23日。この日は「フリーメソジスト教会の誕生日」。フリーメソジスト教会とはどんな教会か?これに答えるには、この教会がなぜ誕生したのかを振り返るのが近道でしょう。英国での宗教改革で英国国教会(聖公会)が誕生したのが16世紀。聖公会の司祭であったジョン・ウェスレーたちが初代のキリスト教会に立ち返ろうとして「メソジスト」とあだ名され、改革運動を始めたのが18世紀。聖公会からメソジスト教会が分かれ、英国だけでなくアメリカ大陸にも広がり次第に世俗化してしまった時、「メソジストの原点に帰ろう」「ウェスレーが強調した全き聖化の教えと体験を大切にしよう」という改革が起きたのが19世紀。その内のある人々がメソジスト教会から除名され、1860年8月23日にニューヨーク州ナイアガラ郡ペキンのキャンプ場で設立したのが「フリーメソジスト教会」です。
では、「全き聖化」とは何でしょうか?なぜ、それほどに大切なのでしょうか?イエス様を信じることによる「救い」とどんな関係があるのでしょうか?みことばに聴きましょう。
Ⅱ.みことば
1.救いとは?(Ⅱコリント 6章14~18節)
「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません」(14節)というみことばは、「クリスチャンはそうでない人と結婚してはいけない」と言われるときに根拠とされるみことばです。「くびき」とは畑を耕す際に2頭の家畜を横に並べてつなぐ道具です。牛と牛ならつり合いますが、牛と馬を「くびき」でつなぐと高さも歩幅も違うので一緒に進めないでしょう。ここでの「くびき」とは、生活の仕方、優先順位、お金の使い方などの価値観と言えるのではないでしょうか。イエス様を救い主と信じて「救い」をいただくと、これらが大きく変わります。たとえば、日曜日は教会で礼拝することが喜びとなります。毎日の生活でも、自分の好みや考えだけでなく神様が喜ばれることを選び、神様が嫌われることは避けるようになります。お金の使い方も、自分の好きなようにではなく、まず収入の10分の1は神様のものと取り分けて献金として神様にささげ、残りの10分の9を神様に喜ばれるように使うようになります。イエス様を信じない人に、この「くびき」をつけて一緒に生活しようと言っても、理解されないのではないでしょうか。お互いが我慢して疲れ果ててしまうか、クリスチャンの側が流されて教会に行かなくなるかもしれません。
この手紙が送られたコリントという町は道徳的に乱れ、偶像を拝む人々が多かったようです。そのような町でイエス様を信じた人は、いただいた「救い」のすばらしさと、今までの生活と何が決定的に違うのかを知る必要がありました。14~15節を読みましょう。「正義と不法」「光と闇」「キリストとベリアル(サタン,悪魔のこと)」がそれぞれ全く正反対であるように、イエス様を信じて新しく生まれた人は、決定的に変えられたのです。
第1に「救い」を受けた人は「神の宮」とされました(16節)。神様が住まわれるのです。
第2に「救い」を受けた人は「神の民」とされました(16節)。自分の所有者は神様です。
第3に「救い」を受けた人にとって、神様は父となり、私たちは息子、娘とされました(18節)。イエス様を救い主と信じた人は、神様を父とする神様の家族とされたのです。
これらは、イエス様を信じた瞬間に、私たちに起きた立場の決定的な変化です。しかも、「救い」を受けた瞬間に「聖化」という、私たちを、神の宮、神の民、神の家族として実質的に整え、きよくしていく変化が始まりました。「救い」は「聖化」の始まりなのです。
2.全き聖化とは?(Ⅱコリント 7章1節)
イエス様を信じて「救い」を受けた人は、確実に「天国」に迎えていただけます。しかし、多くの人は、信じた直後に「天国」に行くわけではありません。「救い」を受けてから、悩みや困難を経験しつつ、地上で生きていくのは何のためでしょうか?それは、神様の家族として成熟するためです。「救い」はゴールではなく「聖化」の始まりなのです。
「救い」を受けた人は、すべての罪を赦されました。でも、罪がなくなり、罪を犯さなくなったわけではありません。ここに私たちの悩みがあります。「救い」を受けた自分の中に罪が残っている現実です。思いや言葉や行ないで、神様に喜ばれないことをしてしまった時、神様に喜ばれることをしなかった時、①「自分は救われていないのではないか」という疑い、②「このぐらいのことは誰でも同じではないか」というごまかし、③「教会に行きづらい」というやましさなどを経験したことはないでしょうか。しかし、罪を犯しても、「救い」は取り消されません。その罪を神様に告白するなら、赦されます(Iヨハネ1:9)。
では、私たちは「救い」を受けても、なぜ、罪を犯してしまうことがあるのでしょうか?立場は「神の宮」「神の民」「神の家族」に確かに変わったのですが、中身が充分に伴わず、神様の子ども、神様の家族のひとりとして未熟であり、育つ必要があるからです。
ですから、「全き聖化」を求めるのです。7:1を読みましょう。「このような約束」とは私たちが神様の息子、娘、神様の家族となるという約束です。聖なる神様の家族とされたのですから、「一切のけがれから自分をきよめ」ようではないかと言われています。ここの「きよめる」は瞬間的な出来事を表わす表現で、「全き聖化」という節目を意味すると思われます。「救い」とは私たちが神様の子どもとして新しく誕生した瞬間であり、「全き聖化」とは神様の子どもとして大人となる節目です。成人式のような区切りと言えるかもしれません。自分の罪も弱さも一切を神様にお献げし、神様はこの自分をきよめることがおできになると信じるとき、神様は「全き聖化」を恵みとして与えてくださいます。それは、神様に喜ばれたいという動機における愛の純粋さ、ことばや行ないでの間違いや失敗はあり得る「完全さ」で(『現代に語るウェスレー神学』,p.96-97)、「全き愛」とも呼ばれます。
「全き聖化」の恵みを受けた人の愛は、成長を止めない愛です。「聖さを全うしよう」(1節)と言われている通り、ゴールはまだ先に、イエス様が来られる日に「栄光のからだ」をいただく日にあります。では、神様の子どもとしての成人式のような「全き聖化」の恵みは、なぜ大切か?「全き聖化」の恵みは、私たちを神様の家族のひとりとして成熟させ、神様と人とをより深く愛せるようにするからです。この恵みを受けた人は、「天国」でイエス様や先に召された人々と会う日の喜びや感謝も、より深いものとなるに違いありません。
Ⅲ.むすび
フリーメソジスト教会は今,アジア,アフリカ,オセアニア,南北アメリカ,ヨーロッパ,中東など全世界の70以上の国と地域にあり、教会員は106万人です(2015年現在)。その共通の使命が今日の週報の一番下に「フリーメソジストの使命」として記されています。イエス様が私たちのための十字架の死と復活により成し遂げられた「救い」は、「罪の赦し」だけでなく、「きよめ」(全き聖化)を通してなされる全人的完成(成熟)への神様の召し(呼びかけ)です。この呼びかけを人々に知らせ、「信じる」と応答するすべての人を教会の交わりに招き入れ、奉仕のために整える使命を、私たちは果たしましょう。
(記:牧師 小暮智久)