2021年1月17日 礼拝説教「摂理と神の家族」
聖書: 創世記 46章8~34節
Ⅰ.はじめに
今日は、阪神淡路大地震の発生から26年となる日です。あの日の大きな揺れと、その後の救援の活動も忘れることができません。私たちの教会のご高齢の教会員が西宮市の山手の方におられ、水やおにぎりなど食糧を一人で背負って届けに行きました。当時電車は西宮北口駅までしか動いていませんでしたから、駅から片道1時間以上歩いたように思います。線路は波打っており、道の両脇の家の多くが傾いたりつぶれたり、すさまじい光景でした。お届けしてお祈りして駅まで戻って来た時にはもう暗くなっていました。教団の全体としても、救援活動が始まっていきました。教会の被害に対してだけでなく、それぞれの教会の教会員で被害を受けられた方への支援がなされていきました。家族がお互いに助け合うように、神様の家族である教会も、そのメンバーである教会員のお互いも、神様の家族なので関心をもち、助け合うのだということを、身をもって経験した出来事でした。
私たちの教会は2004年から「創世記」を礼拝で少しずつお聴きしています。この「創世記」は、世界と人間の創造、罪の始まり、ノアの箱舟などの出来事を語り、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフというイスラエルの民、神様の家族の原型とも言えるような神様の民の先祖の人生を詳しく記しています。今日は昨年9月27日以来久しぶりになりますが、前回お聴きしたところの続きから、神様のみことばに共に聴きましょう。
Ⅱ.みことば
1.エジプトに移住した神の民(創世記 46章8~27節)
今日は司式者にカタカナの名前が長々と続く箇所を読んでいただきました。『聖書』には所々、このような部分がありますね。「歴代誌 第1」の1~9章あたりはアダムから始まり人の名前がずっと続きます。読み飛ばしてしまうかもしれませんね。なぜこのような所があるのでしょうか。人の名前が長々と続くこの箇所は何のために書かれたのでしょうか?
今日のこの箇所の目的として少なくとも次の2つのことが言えるのではないでしょうか。
「エジプトに来たイスラエルの子ら、ヤコブとその子らの名は次のとおりである」(8節)とあります。一つ目に、この長い名前のリストは、カナンからエジプトに移住したのがヤコブの子どもたちの一部分ではなく、12人の息子たち全員の名前が出てくるようにヤコブの子孫の全員がエジプトに行ったことを示すためではないでしょうか。ヤコブの子らでカナンに残った人はなく、みなが同じようにエジプトへ行き、同じ経験をしていったのです。
二つ目に、この長い名前のリストは、ひとりひとりの存在が大切で意味があるので、省略できないことを示しているのではないでしょうか。ここには母親ごとにヤコブの子と孫の名が記され、レアの子(ルベン,シメオン,レビ,ユダ,イッサカル,ゼブルン)が9~15節、ジルパの子(ガド,アシェル)が16~18節、ラケルの子(ヨセフ,ベニヤミン)が19~22節、ビルハの子(ダン,ナフタリ)が23~25節に記され、計70人であったと書かれています。興味深いのは「カナンの女」(10節)という異邦人による子どもの名前もあることです。今の私たちもイスラエルの子孫ではなく異邦人ですが、イエス様を信じることにより、アブラハムの子孫、神の民、神の家族とされました。ガラテヤ3:26~29を読みましょう。私たちひとりひとりは、神の家族とされ、自分の名前、自分の存在を神様に覚えられているのです。
2.摂理による再会と移住(創世記 46章28~34節)
カナンからエジプトへ移住したヤコブの子どもや孫たちの名前がひとりひとり記されたあと、エジプトに近づいた父ヤコブが息子のユダをヨセフの所に先に遣わした場面が続きます(28節)。ヨセフはどうしたでしょうか?29節を読みましょう。17歳の時に兄たちに売られ、エジプトの総理大臣になったのが30歳、7年の豊作のあと、7年の飢饉が「あと五年続く」(45:11)と言われていますから、2年過ぎたところでヨセフはこの時39歳と思われます。つまり、22年ぶりの再会です。一方の父はどうか?30節を見ましょう。これは、心の底からの喜びと満足にあふれたことばではないでしょうか。新約聖書でのシメオンがイエス様と出会えた時の喜びの賛歌(ルカ2:29~32)とよく似ているとも言われます。
この29,30節では、父に「ヤコブ」ではなく「イスラエル」という名前が使われているのは興味深いことです。個人としての父ヤコブと息子ヨセフの感動の再会というだけでなく、これから民族となり増え広がっていく神様の民であるイスラエルがエジプトにやって来たのは神様の導きによるのであり、エジプトでの父イスラエルと息子ヨセフの再会も神様の摂理によるのだということが強調されているのではないでしょうか。思えば22年前、ヤコブからヨセフが引き離された悲しみは、ヨセフの兄たちの罪によることですが、神様はそれをも用いてヨセフを最終的にはエジプトの総理大臣とし、ヤコブ一族がエジプトに移住するように導かれたのでした。
一時的な悲しみが、つらいことが、次の新しい祝福への、さらなる成長や成熟へのきっかけとなるということは、今の私たちにもあるのではないでしょうか。阪神タイガースの矢野監督が先日、今年の新人の選手に「自分の壁にできるだけ早くぶつかれ。そして、そこから這い上がって来い」という主旨のことを言っていたのが印象に残っています。困難、悩み、ゆきづまりなどは、神様の摂理の中で、新たな祝福や成長への機会となり得ます。
31~34節にはヤコブとその子たちの羊飼いという仕事が、エジプトでは忌み嫌われていたということが記されています。これは何を意味するのでしょうか?ヤコブの子たち、イスラエルの人々は、エジプト人が住む場所とは違う所に住むことになったのでした。このことは、ヤコブの子や孫、さらにその子や孫と世代が進み、人が増えて、イスラエルの民族と呼ばれるような集団になっていく際に、自分たちは「神の民」であるという意識をはっきりと持たせ、エジプトの偶像礼拝から彼らを守り、エジプト人と結婚することでエジプトの影響を強く受けることも防いだのではないでしょうか。
Ⅲ.むすび
私たちひとりひとりの罪の身代わりとして十字架で死んでくださり、墓に葬られ、3日目に死から復活されたイエス様を救い主と信じることによって、今の私たちも神様の子ども、神様の家族、神様の民とされて、神様の摂理の中に生かされています。イスラエルと呼ばれるヤコブと、その12人の息子たちや中でもヨセフを導き、困難の中で、神様の家族としてはぐくみ、ゆがみを整えていかれた神様は今も変わらず生きておられ、私たちにも働きかけておられます。緊急事態宣言が出て困難な時ですが、特に今それぞれがぶつかっている重荷や悩み、壁と言えるような課題などを、同じ神様の家族の誰かと電話や平日感染に注意して会うなどして分かち合えればと願います。私たちを神様の家族としてはぐくみ、整え、より自分らしく生きられるように導いてくださる神様の摂理の中で生かされるために、神様に教えられやすく、変えられやすい者とされましょう。
(記:牧師 小暮智久)