2020年11月22日 礼拝説教「いと高き方の子ども」

聖書: ルカの福音書 6章 27~36節

Ⅰ.はじめに

 先週水曜日のNHKの歴史情報番組「歴史秘話ヒストリア」で戦国時代の細川ガラシャが取り上げられ、興味深く観ました。明智光秀の娘・明智 玉として生まれ、細川忠興(ただおき)と結婚した後に洗礼を受けてキリシタンとなった人です。「ガラシャ」は洗礼名で「神の恵み」という意味です。英語で「アメイジング(驚くべき) グレイス」と言う時の「グレイス」にあたります。細川忠興と結婚後、自分の父・明智光秀が主君・織田信長を本能寺で討ち、細川家では裏切り者の娘として苦境に立たされ、今の京都府宮津市、天橋立(あまのはしだて)の近くに幽閉されます。2年後、大阪に戻ります。番組では、本能寺の変の直後、父が助けを求めて来たのに助けられなかった罪責感に苦しむ細川 玉が描かれていました。そんな折、玉に仕える侍女がキリシタンであるのを知り、今の天満橋の北大江公園にあったと言われる大坂の教会に行くのです。印象的なのは洗礼式のシーン。豊臣秀吉からバテレン(宣教師)追放令が出され、宣教師のはからいにより、玉は屋敷でキリシタンの侍女から洗礼を受け、細川ガラシャとなったのでした。その後、屋敷で礼拝をささげ、他の侍女たちにもキリストを伝えたようです。1600年の関ヶ原の戦いの直前、石田三成の人質になるのを拒み、家臣に胸を突かせ、屋敷に火を放ち、38歳で生涯を終えます。ガラシャ最期の地の近く、玉造の聖マリア大聖堂には細川ガラシャの像があります。思えば、細川ガラシャは様々な敵に囲まれた生涯を送ったと言えるのではないでしょうか。私たちの教会では2017年5月から「ルカの福音書」を共にお聴きしています。前回10月25日にお聴きした所の続きの今日の箇所は「敵にどう接するか」を取り上げています。みことばに共に聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.自分に敵対する人に(ルカの福音書 6章27~31節)

 イエス様が弟子の中から12人を選び、使徒(遣わされる人という意味)と名づけ(13節)、「平らなところ」(17節)で大ぜいの人々に話し始められたのが20節から始まる「平野の説教」と呼ばれるみことばです。今日の箇所は「しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います」(27節)で始まります。これは、話題がここから新しくなることを示す言葉であり、今から話すことの大切さを強調する言葉でもあるのではないでしょうか。

 イエス様はここで、何を語られるのでしょうか?「あなたがたの敵を愛しなさい」(27節)。自分に敵対してくる人を愛しなさい。これは35節でも繰り返されます。そして、その間で言われているのは、自分に敵対する人にどう接するかの具体例と言えるでしょう。

 「敵」と言われて、当時の人々が思い浮かべたのはどんな人でしょうか?当時のユダヤ地方は、ローマ帝国に支配されていました。町にはローマ軍が駐留していて、時にユダヤ人は進駐軍の兵士から暴力行為などを受けたと思われます。自分たちを憎み、呪い、侮辱することもあるローマの兵士が、自分たちに敵対してくる。自分たちを憎むローマ人には「善を行いなさい」(27節)、自分たちを呪うローマの軍人がいたら「祝福しなさい」(28節)、自分たちを侮辱するローマの兵士たちがいれば、彼らのために「祈りなさい」(28節)。

 29節はより具体的です。自分のほっぺたを打つ人には、往復びんたで反撃しなさい、と言ってくださればスッキリするのに、と私なら思います。しかし、「敵を愛する」という態度を一貫させるなら、相手を傷つけない。必要なら、もう片方のほおを打たれる覚悟をする。これも、進駐軍のローマの軍人に殴られた場合が想定されているかと思われます。しかし、こう言われたイエス様は、ご自身が大祭司の下役に平手で打たれた際、もう片方のほおは向けず、「なぜ、わたしを打つのですか」と言われました(ヨハネ18:22~23)。状況に応じて対応は異なるでしょう。「上着を奪い取る者」(29節)、「求める者」(30節)、「あなたのものを奪い取る者」(30節)というのも、服や食べものやお金がなくて困っている人や強盗には何でも与えなさいということではなくて、当時のローマ兵が理不尽な要求をしてきた時には、敵への愛のゆえにそれに従いなさい、という意味ではないでしょうか。

 自分に敵対する人を愛するとは、どういうことでしょうか?31節を読みましょう。ユダヤでは当時、「自分にとっていやなことは、人にもするな」と教えられていました。日本での言い方と似ていますね。しかし、イエス様は積極的な表現で、「自分が人からしてもらいたいことを、ほかの人にすること、それが愛することだ」と言われたのです。

2.敵を愛する理由は?(ルカの福音書 6章32~36節)

 イエス様はなぜ、「自分に敵対する人を愛せよ」と命じられるのでしょうか?32節を読みましょう。自分を愛してくれる人を愛することは、「罪人たちでも」(32節)、当時の意味では神を知らない異邦人でも、今の意味で言えばイエス様を信じていない人でもしていることだから、というのがその理由ではないでしょうか。自分を愛してくれる人を愛したとしても、良いことをしてくれる人に良いことをしたとしても「どんな恵みがあるでしょうか」という表現が繰り返されています(32,33,34節)。この「恵み」という言葉を「口語訳」という翻訳は「手柄」と訳しましたが、元の言葉は「カリス」、「恵み」という意味で、特に「神の恵み」を意味し、先ほどの「ガラシャ」にも通じます。つまり、こういうことです。「自分を愛してくれる人を愛したとしても、そこにどんな神の恵みがあることになる(神の恵みがあらわれている)でしょうか」。神の恵みなしでも、自分を愛する人ならば、愛せるではないか、ということではないでしょうか。神の恵みなしでも、私たちにできることは、「してもらったから、してあげる」という同じ分だけを交換する条件付きの愛です。

 「しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい」(35節)。これは、神の恵みの助けなしにはできないことです。ですから、神の恵みがあらわれる機会となります。それが、自分に敵対する人を愛する理由ではないでしょうか。「彼ら」(35節)、直接には、自分たちに敵対するローマの軍人と思われますが、彼らによくしてやり、返してもらうのをあてにせず貸しなさい、と言われています。このみことばを、金銭の貸し借りについて現代にそのままあてはめるのは困難だと思います。そもそも金銭の貸し借りはしない方がよく、借りた人は返さなければなりません。しかし、当時の不当な要求をしてくるローマ兵に、そのように接することができるならば、それは「神の恵み」が証しされる機会となり「あなたがたは、いと高き方の子どもになります」(35節)。のちにローマ人やローマ兵でキリスト者になる人が少なくなかったのは、このことと無関係ではないと思われます。

Ⅲ.むすび

 子どもは、親に似ます。外見だけではなく、しぐさや考え方も似てきます。いと高き方、神様はご自分に敵対する人をも愛するお方です(35節)。神様に敵対する私たちのために、神様の御子イエス様が十字架で死んでくださったのはそのあらわれです。イエス様を信じ、このお方の子どもとされた人は、親に似て、自分に敵対する人を愛するように変えられていきます。私たちは、天の父のあわれみ深さに似る者とされましょう(36節)。これは命令であると同時に、そうなれるとの約束でもあるのではないでしょうか。

(記:牧師 小暮智久)