2024年5月5日 礼拝説教 「神の愛する子ども」

聖書: マルコの福音書 1章9~11節

Ⅰ.はじめに

 私たちの教会の今年度のテーマは「私たちは神の愛する子ども」です。主題のみことばは、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(マルコ1:11)です。今日は、このみことばに、共に耳を傾けましょう。

Ⅱ.みことば

1.イエス様が受けられた洗礼(マルコの福音書 1章9節)

 今から約2000年前、中東イスラエルのガリラヤ地方のナザレという町で育たれたイエス様が、約30歳の時のことがここに書かれています。これは、イエス様がヨルダン川でヨハネという人からバプテスマ(洗礼)を受けたという場面です。ヨハネが人々に授けていた洗礼にはどんな意味があったのでしょうか?ヨハネが授けた洗礼は、今のキリスト教会の洗礼とは違います。キリスト教会の洗礼式は、キリストを信じて神の子どもとされたことを正式に公表する式です。それに対して、ヨハネが授けていた洗礼は、迫りくる神の怒りから逃れるために罪を悔い改めるしるしであり、キリスト(救い主)を迎える準備でした。

 イエス様は、ヨハネから洗礼を受ける必要があったのでしょうか?罪のないイエス様は神の怒りを逃れる必要もなく、洗礼を受けなくてもよかったはずです。では、なぜ、洗礼をお受けになったのでしょうか?それは、私たちと同じ立場になるためだったのではないでしょうか。神の御子として罪の全くないお方でありながら、同時に、私たちと同じように喜怒哀楽の感情や肉体的な限界のある人間となられたことを示すために、イエス様はヨハネから洗礼を受けられたのです。ヨハネが授けていた洗礼は救い主を迎える準備でしたが、イエス様の十字架と復活後に父と子と聖霊(三位一体の神)の名によって授けられる、今の私たちが受ける洗礼の原型だったと言えるでしょう。その意味では、イエス様は私たちのお手本として洗礼を受けられたのです。

2.天からの声(マルコの福音書 1章10~11節)

 洗礼を受けられたイエス様に何が起きたのでしょうか?10~11を聴きましょう。ここには、三位一体の神がお互いに働きかけ、対話をしている光景があります。御子であるイエス様に聖霊なる神がくだり(10節)、天の御父が御子イエス様に呼びかけておられます(11節)。それは、その場にいる人々に高らかに宣言するかのような呼びかけです。

 この三つにして一人の神、三位一体の神は、今の私たちひとりひとりに具体的にはどのように関わってくださるのでしょうか?父なる神様は、御子イエス様をこの世に送ってくださいました。御子イエス様は、神様と等しい方であるのに人となられ、ご自身に罪はないのに、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、葬られました。御子イエス様は3日目に墓から復活され、ご自身を救い主と信じ受け入れる人のすべての罪を赦し、神様の子どもとしてくださいます。イエス様を信じた時にその人には、永遠の存在である父なる神様とのつながりという永遠のいのちが与えられ、神様と一緒に過ごす日常生活が始まるのです。これらすべてのことにおいて、助けてくださるのが聖霊なる神様です。聖霊は、私たちにイエス様がよくわかるように助けてくださいます。あなたが今、「イエスは主である」と信じているのなら、それは聖霊の助けによるのです(Ⅰコリント12:3)。つまり、私たちは、聖霊である神様の助けにより、御子イエス様を信じることによって、父である神様との和解を与えられ、三位一体の神様の家族の一人に迎え入れられたのです。永遠の昔から父・御子・御霊の、それぞれが自由で、しかも互いに関わり合って対話し合い、一致しておられ、信頼し合っておられるその交わりの中に、私たちは子どもとして、家族のひとりとして迎えられたのです。

 私の神学校時代の恩師の一人、上沼雅雄先生が『父よ、父たちよ』(いのちのことば社,2010年)という本を書かれました。その中にこんな文章があります。「ゆっくりとその家に入っていくような感じで、そこに展開されている家族の様子を見てみたい。すなわち、三位一体の神の家の風景である。その家族の会話であり、茶の間の風景である。あたかもその場にいるかのようにして、その様子を伺い、そのやり取りに耳を傾けてみたい。御父と御子と聖霊のやり取りである」(p.204-205)という文章です。それは次のように続きます。「そこでの会話を知る手がかりとして、キリストがバプテスマを受け、水から上がられたときに聞いた天からの声は際立っている」と続き、このみことばが紹介されます。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(11節)。とても短いことばです。しかし、その一言だけで充分だと感じられることばではないでしょうか。これは父なる神様が、イエス様に言われたことばです。しかし、それだけでなく、イエス様を信じる人に、イエス様を通して、父なる神様から響いてくることばだと言えるのではないでしょうか。なぜなら、イエス様を信じ受け入れた人は「神の子ども」とされたからです(ヨハネ1:12)。神様は、イエス様を信じているひとりひとりに対して、イエス様を通して「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」と言っておられるのです。

Ⅲ.むすび

 先月の青年部主催のスプリングコンサートで歌われた「神の子」という歌が心に残っています。「何ができても できなくても 何を得ても 失っても ただ愛されてる 天の父に 私は神の子」という歌詞です。飾らない、短いことばが、「そうだ。どんな状態の私も、天の父なる神に愛されてる子どもなんだ」と、じわーと心にしみてきました。

 自分とは何者か。自分がどんなに意味のない者に思えたとしても、「あなたはわたしの愛する子」という父なる神様の声に、「自分とは神に愛されている子どもなのだ」と気づきます。「教会で出会ったお互いは、共に神に愛されている息子、娘なのだ」と目が開かれます。

 今日はこのあと聖餐を受けます。私たちが神様の子どもとされるために、イエス様が十字架で死んでくださったことの意味を思い巡らし、味わいましょう。そして、天の御国での生活へとつながる神様の家族の交わりの中で、「神の愛する子ども」とされた恵みの豊かさを、今週経験させていただきましょう。

(記:牧師 小暮智久)