2024年4月7日 礼拝説教 「歩調を合わせて」
聖書: ルカの福音書 24章13~32節
Ⅰ.はじめに
大阪では桜がほぼ満開、日本の季節はまさに春本番でしょうか。キリスト教会の暦では先週の日曜日がイースター、イエス様が死から復活されたことを祝う日でした。イエス様が復活されたことを、イースターの時だけ覚えるのではもったいないと思います。イースターからの7週間、今年で言えば5月19日の聖霊降臨日(ペンテコステ)までをキリスト教会の暦では「復活節」と言います。この季節には、イエス様の復活の意味を思い巡らし、復活されたイエス様に心を向けて過ごしたいものです。イースターの翌週である今日、復活を信じられない弟子たちに歩調を合わせてくださったイエス様に心を向けましょう。
Ⅱ.みことば
1.失意の中にいるふたりに(ルカの福音書 24章13~24節)
「ちょうどこの日」(13節)とはいつか?それは、「週の初めの日」(1節)、今で言えば日曜日、女性たちがイエス様のお墓に行った日です。お墓に納められたはずのイエス様のおからだはなく、主の使いが「イエス様はよみがえられたのです」と告げた日です(6節)。女性たちは11人の使徒たちに知らせますが、彼らは信じませんでした(11節)。当然かもしれません。『聖書』は人間の現実を記しています。信じない弟子たちに「わたしは復活したのだよ」と、復活されたイエス様ご本人がお示しになる構図がこのあとしばらく続きます。
「弟子たちのうちの二人が」(13節)とあります。ペテロやヨハネなどの使徒ではなく、あまり知られていない「クレオパ」(18節)という人や名前の書かれていない人です。クレオパの奥さんか、この福音書を書いたルカかもしれないという説もあるそうです。いずれにせよ、リーダー格でなく目立たない人々ということに、今回私は親しみを感じました。
彼らがエルサレムからエマオに向かって歩きながら話し合っていた「これらの出来事すべて」とは何か?それは19~24節に記されているようなイエス様のこと、特にイエス様への期待と十字架での死という失意、復活という情報に対する当惑でしょう。そこに近づいて歩調を合わせるお方がいます。15節をお読みします。彼らは、それがイエス様だとはわかりません。死んだはずのイエス様であるはずがないと思い込んでいたからでしょう。イエス様は彼らの話題や関心にも心を合わせてくださいます(17節)。彼らが立ち止まると、イエス様も止まる。クレオパの「あなただけがご存じないのですか」(18節)という質問には見下すような態度さえ感じますが、イエス様は彼らのその思い、失意と混乱ぶりに歩調を合わせ、耳を傾けてくださいます(19~24節)。イエス様は今の私たちにも歩調を合わせ、私たちの失意や困惑などの心の思いにも近づいてくださり、耳を傾けてくださいます。
2.親しく接するお方(ルカの福音書 24章25~32節)
ふたりと歩調を合わせ、耳を傾け、傾聴してくださっていたイエス様が、その口を開かれます。25節をお読みします。以前ここを読んだ時には、厳しく、きついことばだなあと感じましたが、今回は少し違いました。イエス様はふたりを責めているのではなく、むしろ、彼らを理解し、彼らの身になっているのではないでしょうか。「あなたがたは心が鈍くなっているから『聖書』のことばが信じられない、そういう状態なんだね」と、彼らとならんで、必要なら肩を抱いて、親しみを込めて言っているのではないでしょうか。
27節をお読みします。「イエスは、・・・説き明かされた」(27節)。ここでの「聖書全体」とは「旧約聖書」のことです。「旧約聖書」はその全体がイエス様のことを指し示している。キリスト(救い主)は苦しみを受け、十字架で死なれ、それだけで終わらず、復活するということを、「旧約聖書」は約束していたではないかと、ユダヤ人であるなら知っているはずの「旧約聖書」から説き明かしてくださいました。そのようにして彼らの知的な理解にも、イエス様は歩調を合わせてくださった。『聖書』そのものがわからない日本の私たちにも、日本人クリスチャンの先輩(細川ガラシャ、賀川豊彦、新渡戸稲造など)やミッションスクール(関西学院、同志社、大阪女学院など)の存在、クリスチャン作家(遠藤周作、三浦綾子など)の小説などによって、イエス様は働きかけてくださっているのではないでしょうか。
イエス様はさらに先へ行こうとされますが、ふたりは引きとめます(28~29節)。「一緒にお泊りください」(29節)はのちほどの讃美歌39番では「主よ、ともに宿りませ」と歌われます。「イエスは・・・中に入られた」(29節)とあるように、私たちもイエス様をお迎えするなら、イエス様は親しく接してくださり、一緒に過ごしてくださいます。30~31節をお読みします。私たちは「パンを・・・裂いて彼らに渡された」と読むと「聖餐」を思い起こしますが、ここにはぶどう酒のことは書かれておらず、「聖餐」ではないようです。「すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かった」(31節)のはなぜでしょうか?このふたりの弟子は「最後の晩餐」の席にはいませんでしたから、その時のイエス様の仕草を思い出してイエス様だとわかったのではありません。むしろ、イエス様とのごくふつうの食事という親しさの中で、その手に釘による傷跡があるのに気がついたかもしれませんし、その交わりの中でイエス様の働きかけにより、目が開かれたのではないでしょうか。「その姿は見えなくなった」(31節)のはなぜでしょうか?とても不思議です。「復活のからだ」は急に消えたり、現われたり(36節)、瞬間的な移動が可能なようですが、決して幽霊ではなく、焼いた魚を食べることができるからだです(42~43節)。私たちは皆、だれもが一度は死にます。イエス様を信じている人は、神の胸の中で生き、神の胸の中で死に、神の胸の中で復活するのです(大頭眞一,『聖化の再発見 ジパング篇』,p.90)。私たちにやがて与えられる「復活のからだ」は、イエス様の「復活のからだ」と同じようなからだです。
Ⅲ.むすび
今の私たちのそれぞれの状態に合わせて、歩調を合わせてくださるイエス様とともに、イエス様と親しく交わるために、「聖餐」という恵みが備えられています。「聖餐」によって養われましょう。私たちに近づき、働きかけ、『聖書』を説き明かしてくださるイエス様によって、心を燃やされて、今週も歩ませていただきましょう。
(記:牧師 小暮智久)