2023年11月5日 礼拝説教 「安息日のイエス様」

聖書: ルカの福音書 6章 1~11節

Ⅰ.はじめに

 今日は、子どもと大人の合同礼拝です。合同礼拝では、教会学校の『聖書』の箇所から神様のことばをお聴きしています。教会学校は今、「神の子イエス」という単元で、目標は「主イエスの働きを知り、救い主として信じて従う」です。今日は、イエス様が「安息日」について教えられたことと今の私たちとの関係について、みことばに共に聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.正しさの主張(ルカの福音書 6章1~5節)

 「ある安息日に」(1節)とあります。「安息日」とは、仕事を休み、神様を礼拝し、神様と共に過ごす日と『聖書』で定められ、当時は土曜日でした。7日間のうち1日を休みの日とするというリズムは『聖書』から来ています。イエス様はその日、麦畑を通っておられました。弟子たちは麦の穂を取って、手でもみながら食べていたのです。今の感覚では他人の畑の麦を勝手に食べてはいけないと思えますが、当時それは許されていました(1節の脚注②,申命記23:25)。すると、ある人々が弟子たちを非難したのです。2節を読みましょう。「安息日にしてはならないこと」とあります。当時は「安息日」を守るために、歩くのは何メートルまでとか、してはならないと人間が定めた規則がたくさんありました。パリサイ人とは神様の命令に徹底的に正しく従おうとする人々で、弟子たちがしたことは刈り取りや脱穀という仕事になるから規則違反だと責めたのです。

 さて、どうなるでしょうか?弟子たちが責められた時、イエス様が答えてくださいました。私たちが責められる時も、イエス様がお答えくださるなら、心強いですね。イエス様が言われたエピソードは、3節の脚注①にあるように「旧約聖書」のⅠサムエル記21:1~6にあります。それは、神の戒めでは祭司だけが食べられるパンを、空腹であったダビデたちが食べたという出来事です。空腹という人間の必要が、神の戒めを正しく守ることよりも優先され、誰もダビデをとがめなかったという実例を、イエス様は示したのでした。

 イエス様はここで、パリサイ人たちの「なぜ?」という問いには直接答えず、正しさを主張して人を責める態度を取り上げ、問いかけたように思えます。そして彼らに言われました。「人の子は安息日の主です」(5節)。「人の子」とは「旧約聖書」では時に救い主を指し、ここではイエス様ご自身のことです。イエス様は安息日の主であられ、その過ごし方について権威を持っておられるのです。私たちはイエス様の権威を認めるでしょうか?

2.正しさへの問い(ルカの福音書 6章6~11節)

 別の安息日のことです。場所は「会堂」(6節)という今の教会のような所です。安息日ごとに礼拝があり、イエス様はその日、「旧約聖書」から教えておられました。そこに右手の不自由な人がいたのです(6節)。

 律法学者やパリサイ人たちはイエス様をじっと見つめています(7節)。なぜか?「彼を訴える口実を見つけるため」(7節)でした。律法違反で訴えるためだったのです。

 イエス様はどうされたでしょうか?8節を見ましょう。イエス様はあえて真ん中で、ことを行なおうとなさいました。あたかも彼らに挑戦するかのようです。9節を読みましょう。「安息日に律法にかなっているのは何か?」という問いかけです。これは、彼らが「自分たちこそが正しく、イエスは間違っている」と考えるその正しさへの問いかけと言えるのではないでしょうか。「自分が正しいと思っているその考えは、ほんとうに『聖書』が言っている意図、神様の望んでおられる趣旨に沿っているのか」という問いかけです。

 彼らから答えはありませんでした。それが彼らの答えとも言えます。イエス様はどうされたか?10節を見ましょう。イエス様は、おことばでその人の右手をいやされたのです。

 一方、訴える口実を見つけるために、イエス様を見つめていたパリサイ人たちはどうしたか?11節を読みましょう。彼らは怒りに満ちた。自分は正しいと思う人は、間違った人を見て怒りを感じるということが多いのではないでしょうか。自分は正しいという考えをつきつめると殺人に至ると言われます。自分だけが正しいとすれば、他の人はみな間違っており、他の人の存在を許せなくなるということでしょうか。パリサイ人たちはまさにそうであり、やがてイエス様を十字架につけ、殺すことになります。

 私たちにも多かれ少なかれ、自分を正しいとし、他者を否定する考えがないでしょうか。そのような自己中心の罪のために、イエス様は十字架で死んでくださり、神様のさばきを受けてくださいました。そして、3日目に復活し、すべての人に「救い」を用意してくださいました。イエス様の復活が日曜日だったのを記念して日曜日は「主の日」と呼ばれ、礼拝の日とされ、日曜日は休日ということが4世紀ごろから世界中に広がっていきました。

Ⅲ.むすび

 「主の日」はイエス様がよみがえられた日、喜び、慰め、憩いの日、神様が天地創造のわざを「それは非常に良かった」(創世記1:31)と完了し、休まれた安息の日です。「安息日の主です」と言われたイエス様の権威を認めて、この「主の日」を安息と喜びのために、大切に過ごすお互いとされましょう。

(記:牧師 小暮智久)