2023年8月20日 礼拝説教 「栄光とは」
聖書: サムエル記 第1 4章12~22節
Ⅰ.はじめに
高校野球の熱戦も大詰めとなっています。高校野球と言えば「栄冠は君に輝く」という歌をご存じの方は多いのではないでしょうか。その作曲者・古関裕而(こせき ゆうじ)さんは幼少時に教会の近くに住んでいて教会の鐘の音を聴く機会があり、キリスト者ではなかったようですが、影響は受けたようです。「長崎の鐘」もそうですし、阪神タイガースの「六甲おろし」の作曲者でもあり、2020年のNHKの朝の連続ドラマのモデルにもなりました。高校野球の「栄冠」、「栄光」とは何でしょうか?優勝だけではないと思う、あるいは思いたいのは私だけでしょうか。栄光とは何か?人生の栄光とは何か?何でも思うままにできる権力を手にすることか、それとも、豊かな富を手にいれることか、あるいは、ノーベル賞とはいかなくても何か表彰される名誉をうけることでしょうか。
この教会の礼拝では、『旧約聖書』の「サムエル記」を昨年1月から少しずつお聴きしており、先月7月30日の続きの所です。神様の民であるイスラエルの人々にとって「栄光」とは何だったのかをお聴きし、今の私たちの「栄光」とは何かを思い巡らしましょう。
Ⅱ.みことば
1.知らせの衝撃(サムエル記 第1 4章12~18節)
ひとりの人が走ってきます。その様子は非常事態を告げるためのようです。12節をお読みします。「衣を裂く」のは当時の悲しみの表現、「頭に土をかぶる」のは当時の喪に服する表現だと言われています。彼は、何か悲しい知らせを告げるために走って来たようです。
彼が町に着く。その時、祭司エリはどうしていたか?祭司とは、神様とイスラエルの民の間に立ち、おもに民のために祈る人ですが、彼は祈っていたわけではないようです。13節をお読みします。彼の関心は、人々よりも神の箱(主の臨在のしるし、十戒が刻まれた石板とマナと芽を出したアロンの杖が入っていた)がどうなったかに向いていたようです。
知らせは町の人々に届く。町中こぞって泣き叫び、その声を聞いたエリとこの走って来た人とのやりとりは17節のクライマックスに向けてドラマティックに描かれています。14~17節をお読みします。この知らせの衝撃を、私たちはどこまで理解できるか。榊原康夫氏はサムエル記の注解書で、日本の太平洋戦争での敗戦の状態と比べています(『新聖書注解 旧約2』,p.198)。天皇は神道の祭司職として国民のために祈る立場にあり、その息子は皇太子、伊勢神宮などにある三種の神器が「神の箱」に相当するならば、敗戦とともに皇太子の戦死、三種の神器は敵に奪われたという報告を、エリは聞いたことになります。
エリはどうなったか?18節をお読みします。日本で言えば天皇に当たる役割の彼は、高齢であるとは言え、衝撃的な死を迎えます。日本の敗戦の時がもし、このようであったら、国民である私たちはどうだったでしょうか。皇太子は戦死、三種の神器は敵に奪われ、天皇も突然死。やはり衝撃を受け、多くの人が混乱と絶望と虚無状態に陥るのではないでしょうか。自分の人生にも、混乱と絶望と虚無状態のような時があるでしょうか?
2.栄光は去った(サムエル記 第1 4章19~22節)
40年間もの長い間、イスラエルの国の祭司であり、指導者として国の様々な判断に関わったエリが死んだあと、話題は彼の息子ピネハスの妻に移っていきます。19節をお読みします。出産間近だった彼女が聞いた衝撃的な知らせ、それは①神の箱が奪われたこと、②夫の父エリが死んだこと、③夫ピネハスが死んだことでした。描写のこの順番は、おそらく彼女が受けた衝撃の大きさの順だったのではないでしょうか。あまりの衝撃に陣痛が起こり、子を産みます。どんな出産だったか?20節をお読みします。母体が死に瀕するという危険な出産でした。「男の子が生まれましたよ」と世話する女性たちが声をかけても気に留めないほど、神の箱が奪われたことは彼女にとって衝撃だったようです。その衝撃の大きさは、今生まれた赤ちゃんにつける名前にも表われています。21節をお読みします。ヘブルのことばで「イ・カボデ」という名前がつけられた赤ちゃん。「栄光は去った」「栄光はどこへ」という意味です。日本語で、たとえば「栄治」という名前をつけることはあっても、「悲惨」とか「虚無」などの名前をつけることがあるでしょうか。
名は知られていませんが、このピネハスの妻にとってイスラエルの栄光とは何だったのか?22節をお読みします。彼女にとって、イスラエルの栄光とは「神の箱」であり、それを守る夫の父エリや夫のピネハスなど「祭司」の存在だったのでしょう。確かに「神の箱」は主なる神様がそこにおられることのしるしです。しかし、「神の箱」は神様ご自身ではありません。「神の箱」さえあれば、「祭司」さえいれば、イスラエルは大丈夫という考えがもろくも崩れ去った。それが「イ・カボデ」という名に集約されています。
イスラエルの民にとって、本当の栄光とは「神の箱」や「祭司」ではなく、「主なる神様ご自身」であったはずです。その「神様」がともにおられる「臨在」こそが、イスラエルの栄光だったはずです。いったい、どこでボタンを掛け違えたのでしょうか。
キリスト教会の栄光も、またしかり。教会の栄光とは何でしょうか?礼拝の出席人数か、会堂の立派さか。人数が多いことは喜びですが、たとえ2人か3人でも、会堂がなく家の教会だったとしても、教会の栄光とは「主である神様」であり、「主の臨在」です。
私たち人間の栄光も、またしかりではないでしょうか。人生の栄光とは何か?力や富や名誉を手にすることは喜びですが、たとえ、何もなくても、つまり、自分が年をとり、何もできなくなり、人の役に立つどころか人の世話になり、人に面倒や迷惑をかける存在となってしまったとしても、人生の栄光とは「神様ご自身」であり、「主の臨在」です。天地創造のはじめ、人が「神のかたち」、神のアイコンとして、神の存在を指し示すものとして造られた(創世記1:26,27)というのは、そういうことです。教会の栄光も、人の栄光も、それがどんなに弱く、何もできないように見えたとしても、神様の存在を指し示し、主の臨在を示しているとするなら、それが教会の栄光であり、人生の栄光ではないでしょうか。
Ⅲ.むすび
「新約聖書」の「ローマ人への手紙」3章23節には、ある意味で驚くべきことが書かれています。すべての人は、神の栄光を受けることができないのです。なぜか?罪を犯したから、すなわち、神様に背き、神様から離れてしまい、「神のかたち」、神のアイコンがこわれたからです。つまり、すべての人は「イ・カボデ」。誰もが「栄光が去った」存在なのです。しかし、さらに驚くべきことが24節に書かれている。そんな私たちが、自分の努力の報いとしてではなく、「神の恵みにより」、「キリスト・イエスによる贖い(イエス様の十字架での死と復活)を通して、値なしに義と認められる(神のかたちが回復される)」のです。主の臨在を示す教会、主の臨在を示す自分として歩み続けましょう。そのためにさらに整えられるには、それぞれの生活にどんな変化が必要でしょうか。
(記:牧師 小暮智久)