2023年7月30日 礼拝説教 「何を問うか」
聖書: サムエル記 第1 4章1~11節
Ⅰ.はじめに
「ゲンをかつぐ」ことがあるでしょうか。学校のクラブなどで試合に勝てるように、あるいは入試で合格できるように、前の日に「トンカツを食べる」とか、家を出る時には必ず「右手でドアをしめる」とか、などです。トンカツを食べた翌日は試合に勝てたとすると、その人は毎回「トンカツを食べる」ようになるかもしれませんね。似たようなことで「因果応報」という考え方があります。自分に悪いことが起きた時、自分が悪いことをしたからではないかと、自分に起きることは必ず、自分に原因があるとか、自分でなければ先祖に原因があるという考え方です。楽天的な性格の人は「今日の旅行で天気がいいのは、自分の日頃の行ないがいいからだ」と考えるかもしれませんし、悲観的な人は「今日忘れ物をしたのは、この間電車で席をゆずらなかったからだ」と思い込んでしまうかもしれません。しかし、冷静になってみると、これはずいぶん安易な考え方ではないでしょうか。つまりは、悪いことでもよいことでも、結局は自分でコントロールできる、あるいは先祖のせいなら供養すればよいという、どこまでも自分の状況が中心の考え方だからです。
この教会の礼拝では、『旧約聖書』の「サムエル記」を昨年1月から少しずつお聴きしており、今日は先月6月25日の続きの所です。神様の民であるはずのイスラエルの人々が、安易な対応をした結果、何が暴露されたか、共に神様のみことばに聴きましょう。
Ⅱ.みことば
1.敗北と対策会議(サムエル記 第1 4章1~5節)
時はいつか?「サムエルのことばが全イスラエルに行き渡ったころ」(1節)とあり、それは紀元前1000年頃です。今から約3000年前で、日本では縄文時代の終わりごろに当たります。所はどこか?西アジア、今のイスラエルという国のあたりです。地中海に面してペリシテ人という民族が住んでいました。この「ペリシテ」が「パレスチナ」というその地方の呼び名となったそうです。神様の民であるイスラエル人は、ペリシテ人よりも内陸に住んでいましたが、海沿いに住む「ペリシテ人に対する戦いのために出で行き」(1節)ました。『聖書』における「戦争」をどう考えるかは非常に大きなテーマですが、みことばは淡々と、ペリシテ人がイスラエルを迎え撃ち、イスラエルは敗北したと告げています(2節)。
イスラエルの人々はどうしたか?長老たちは検討委員会とも言えるような相談をしています。3節をお読みします。彼らは単に「どうして負けたのだろうか」と言わず、「どうして主は」と言っています。負けた原因は主が自分たちを打たれたからだというのは、一見、信仰深い考え方に思えます。しかし、それ以上は考えない。主がなぜ、自分たちを打たれたのか、その原因をつきつめ、悔い改めようとはしない。それで、すぐに対策を立てます。「主の契約の箱を・・・持って来よう」。「契約の箱」とは何か?ヘブル9:4に箱の中身が書かれています。アークと呼ばれる「契約の箱」は、そこに神様がおられるというしるしでした。「その箱が…われわれを…救うだろう」(3節)。神様に頼るというよりは、ゲンをかつぐように箱を担いで来させ(4節)、全イスラエルは大歓声(5節)。「どうして、主は?」と問いますが、「自分はどうか?」とは問いません。また、シロにいて神様のことばを語るサムエルに聞こうともしません。表面的で安易な対策だと思うのは私だけでしょうか。
2.暴露されたことは何か(サムエル記 第1 4章6~11節)
「主の契約の箱」がイスラエルの陣営に届いた時の歓声は、陣を張っているペリシテ人たちにも聞こえるほどでした。彼らはどうしたか?6~7節をお読みします。「主の箱」が来たことを恐れ、「神が陣営に来た」(7節)と言い、「困ったことだ」と言います(7節)。それだけではありません。8節をお読みします。自分たちが勝てないと思う根拠を述べています。「ありとあらゆる災害をもってエジプトを打った神々だ」というのは、『旧約聖書』の「出エジプト記」に記されている10の災いのことでしょう。「神々」という言い方はペリシテ人にとっての受け止め方で、本当はただひとりの神です。イスラエルがエジプトを脱出する際、王様があまりに頑固なので神様が10の災害をもたらしたことが、「出エジプト」の約380年後の、当事者でない外国人に知られていたことは注目に値します。このような記述からも『聖書』に書かれていることは歴史的な事実だと実感できるのではないでしょうか。ペリシテ人はイスラエルの神には勝てないと考え、どうしたか?9節をお読みします。「契約の箱が来たからには勝てないぞ。だから、必死に戦おう」と奮起したのです。
再び戦いが始まります。それで、どうなったか?10節をお読みします。神の民は負けました。大敗北です。「契約の箱」がなかった時の敗北よりも、「契約の箱」があったのに負けた今回の敗北の方が大きな衝撃だったのではないでしょうか。もし、今度も検討委員会を開いたとしたら、「どうして、主は」と考えるだけでは答えは出せないでしょう。
さらなる衝撃がありました。11節をお読みします。神様が共におられるという「臨在」のしるしである「神の箱」はペリシテ人に奪われ、祭司の二人の息子は死んだのです。このことで何が明らかになり、暴露されたのでしょうか?ひとつには、神様のことばは必ずその通りに実現するということです。2:34のみことばはこの日、実現したのです。もうひとつには、神様はイスラエルと共におられないという現実が暴露されました。「神の箱」とも呼ばれる「契約の箱」が陣営にあろうとなかろうと、イスラエルの民の心はすでに神様から遠く離れ、自分たちの都合が中心にあり、自分たちに都合のよい神様であり、神様にとって自分はどうかを吟味することが全くなくなっていた。自分たちが神様から離れたので、神様もイスラエルから去った。そのことが暴露されたのです。この衝撃の大きさを、彼らは本当に実感したのだろうか?この打撃の意味と彼らは向き合ったのだろうか?それは単なる昔のことだけでなく、今の私たちにも問われていることではないでしょうか?
Ⅲ.むすび
ここで私が思い起こすのは、「主の軍の将」のエピソードです。ヨシュア記5:13~15をお読みします。剣を抜いて手に持っている人に「あなたは敵か、味方か」とヨシュアは問う。彼はそれには答えず「主の軍の指導者だ」と言う。「ヨシュアよ、あなたの態度によって、私は敵にも味方にもなる」、そういう意味でしょう。「主の契約の箱」もまた、そうであった。神様に対する人々の態度によって、それは敵にも、味方にもなる。自分が神様の側につくなら、「主の契約の箱」は味方です。臨在のしるしだからです。しかし、自分が神様に敵対すると言うなら、「主の契約の箱」はあなたの敵となる。臨在は祝福ともなり、さばきともなるからです。それは、主イエス様の十字架と復活が、信じる者には救いであり、拒絶する者には愚かであり、世の終わりにはさばきとなるのと同じではないでしょうか。
あなたは、今日のみことばから何を感じますか?何を受け取りますか?「どうして、主は」と問うだけではなく、「自分は主の側についているか?」「自分は主と共に歩もうとしているか?」が、今こそ問われているのではないでしょうか。
(記:牧師 小暮智久)