2023年7月9日 礼拝説教 「羊飼いのいない羊」
聖書: マタイの福音書 9章35~38節
Ⅰ.はじめに
今年の半分が過ぎ、後半が始まりました。時の流れがとても速く感じます。先ほど讃美歌313番を歌いました。「この世のつとめ いとせわしく」、この世のいろいろなことが、とてもせわしく、忙しく、人々の様々な声だけがたくさん聞こえてくるような時、主の前にのがれ、静まって、主に御声を聴くことを私は選ぶのだ、と歌っています。この讃美歌を作詞したのは由木 康という人は34歳のある日、東京の銀行に知人を訪ねた時、その人の出勤が遅くて1時間半も待たされ、都会の騒音から隔てられた応接室で神様の前に静まり、心に浮かんだ言葉を書きとめたのがこの歌だそうです。「主よ、さわがしき 世のちまたに」、このさわがしい世間にあって、自分を忘れるほどに、つとめに励む間にも、小さな御声を聴き分けられる静かな心を、主よ、与えてください、と私たちも祈りましょう。
「〇〇年問題」というのを耳にすることがあります。キリスト教会では「2030年問題」というのがあるそうです。2030年、つまり、7年後には団塊の世代の大ぜいの牧師たちが引退し、全国の牧師の数が今の半数になり、半分の教会が立ち行かなくのではないかという問題です。今日は教団の伝道献身者奨励日です。神様に召された伝道献身者が起こされるために、「自分の身のまわりの現実」、「自分に求められていること」を聴きましょう。
Ⅱ.みことば
1.自分の身のまわりの現実(マタイの福音書 9章35~36節)
イエス様は町や村を巡り歩かれました。会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、人々の病気をいやすなど、人々の必要に応じるためです。「御国の福音」(35節)、神の国の福音とは何か。神様は天地万物を造り「神の国の民」として私たち人を造られました。人は与えられた自由意志で神様に逆らい、迷い出てしまいました。それでも神様は私たちを見捨てず、「神の国の民」として連れ戻しご自分との関係を回復するために、ご自分のひとり子をこの世に送り、その救い主をすべての人の代わりに処罰し復活させることを「旧約聖書」で約束されたのです。イエス様は、その約束を実現する「福音(良い知らせ)そのもの」としてご自分が来られたことを宣べ伝えました。これが「御国の福音」、神の国の福音です。
イエス様は何をご覧になったか。36節をお読みします。人々が「弱り果てて、倒れていた」という現実です。「羊飼いのいない羊の群れのように」(36節)と描かれています。羊飼いのいない羊はオオカミにやられ、牧草や水を見つけられずに飢え渇き、生きることができません。自分を造られた神様の元から離れ、迷い出てしまった人々の姿です。説教の前に讃美歌225番を歌いました。「すべての人に 宣べ伝えよ」、(人間から出たものではなく)神ご自身がくださった「みおとずれ」神の国の福音を、です。それは、天の父が御子をお送りくださり、救いの道を開いてくださったという福音です。2節も心に響きます。「まことの幸を求めつつも むなしきものにさそわれゆく」とはまさに、羊飼いのもとから迷い出た羊のようです。自分が生きている意味や価値がわからなくなるのです。福音を、イエス様を伝えるのは私たちひとりひとりです。あなたにしか、伝えられない相手の人がいるのではないでしょうか。そして、信じた人々の群れである教会が養われ、導かれるためにはイエス様に召された働き手、牧師が必要です。今、この教団の26教会・伝道所で専任の牧師がいない教会・伝道所は7つもあります。理事長(ビショップ(監督))は自分の担当の明石上ノ丸教会以外に、茨城県の日立大久保教会と兵庫県の三輪教会を兼任しています。兼任する牧師を送り出している教会は5つ、何らかの犠牲があるでしょう。この両方を合わせると12の教会です。これは教団全体の半分近くで、どちらにも教会が疲弊し無理がかかるのではないでしょうか。牧師が不足することにはこのような現実があるのです。
2.自分に求められていること(マタイの福音書 9章37~38節)
そのような人々の姿を見、決して見下さず、「深くあわれまれ」(36節)て共感し、心を動かされたイエス様は、弟子たちに何を言われたか。「収穫は多いが、働き手が少ない」(37節)と言われました。農作業にたとえた表現です。「収穫は多い」とは、なすべき仕事は多いということです。しかし、「働き人が少ない」(37節)。今も同じではないでしょうか。
「だから」、何をせよとイエス様は言われましたか。人材の募集でしょうか。計画の作成でしょうか。この38節は、元の言葉で冒頭にあるのは「祈りなさい」です。「神の国の福音」を人々に伝えるためになすべきことはキリがないほどに多い。その仕事の量に対し圧倒的に働き人が少ない。では、まず、何をするか。「働き手を送ってください」とお祈りすることです。誰にお祈りするのでしょうか。「収穫の主に」(38節)です。私たちは造り主である神様を見捨てたのに、私たちを見捨てないだけでなく和解の手を差し伸べて関係を回復しようと計画し実行された「収穫の主」である神様にです。この「神の国の福音」とそれを伝える働きは、この「収穫の主」である神様から出たものであって、信者が自分の仲間を増やして団体を維持し拡大するという働きとは異なります。ですから、「すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられ」(Iテモテ2:4)る神様に「働き手を送ってください」とお祈りすることから、神様が進める伝道の働きは始まるのです。
ハレスビーという人は『祈りの世界』で「祈りは神の国でもっとも重要な働きです」と述べました(p.77)。伝道はお祈りから始まります。誰でもお祈りによって伝道に参加できます。ハレスビーはまず、「働き人のための祈り」が非常に大切だと言います。しかも、牧師や神学校で準備中の人のためだけでなく、まだその準備中でもない人のために祈ることが非常に大切だと強調します。教会に、そこにいるはずのない働き人がおり、神に牧師として召された人が、牧師にならず教会に遣わされなかったとしたら、それは、この重大なことのために祈らない私たちの責任だという主旨のハレスビーの言葉は重く響いてきます。
Ⅲ.むすび
このあと讃美歌502「いともかしこし」を歌います。こんな意味でしょうか。「とても畏れ多く、もったいないほどありがたいイエス様の恵みは、罪の中に死んでいた自分をも活かしている。主からいただく天の糧に、飢えた心も満ち足りている。世にある間、このイエス様の栄光と恵みを語り伝えずにはいられない」。3節「奇跡的なこの恵みがひろくいきわたり、生きる意味がわからなかった私をも招き、神の国の相続人とされたからには、主の救いにもれる人がだれかひとりでも、あってよいものだろうか!」。あなたがキリストを信じるために、誰かが神様に祈ったのではないでしょうか。今度は私たちが祈りましょう。自分も「神の国の福音」を誰かに伝えられるように、そして、まだ私たちも本人も気づいていなくても、神様がご自分のための働き手として召しておられる人を送ってくださるように、この教会にも神様が牧師として召された人がおられるなら、その人が「収穫の主」の召しに応じられるように、私たちも祈ろうではありませんか。
(記:牧師 小暮智久)