2023年6月18日 礼拝説教 「キリストのからだとして」

聖書:コリント人への手紙 第1 12章27節

Ⅰ.はじめに

 今日は私たちの教会の伝道開始100周年、献堂57周年を覚える主の日です。フリーメソジスト教会は1860年にアメリカでスタート、1896年に柿原正次師が宣教師としてアメリカから淡路島に派遣され、フリーメソジスト教会は兵庫、大阪、奈良など関西圏に広がります。1923(大正12)年6月に大阪市阿倍野区で伝道が始まり、土山鉄次師を中心に教会員11名で大阪の自由メソヂストの第3教会として組織されてからちょうど100年となります。その後、今の場所に移転し、多くの先輩方の尊いお祈りとささげものによってこの教会堂が建築され1966(昭和41)年6月に神様におささげしてから57年となります。これまでの神様の恵みと導きを感謝し、神様をほめたたえましょう。また、これからの神様のみわざに期待し私たち自身を神様にささげる決意を新たにしましょう。今年度の教会のテーマは「キリストのからだである教会」です。先ほどのみことばにともに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.キリストのからだとは?(コリント人への手紙 第1 12章27節)

 私たちがイエス様を救い主と信じ、洗礼を受けたということは、単に信じる宗教を選んだという個人的なことではなく、キリストのからだとされたという団体的な出来事です。みことばに「私たちはみな、・・・バプテスマを受けて、一つのからだとなりました」(Ⅰコリント12:13)と書いてあるとおりです。この「一つのからだ」とは「キリストのからだ」です。あなたも、私も、イエス様を信じたならば、キリストのからだとなったのです。

 「キリストのからだ」とは何でしょうか?先月、「ジョン・ウェスレーに学ぶ会」で私は「牧会者ウェスレー」についてお話しました。その時にウェスレーのからだの大きさを調べて紹介しました。資料によると、ウェスレーは身長が160cm、体重が55kgと推測されます。私の今の身長は161cm、体重は54kgなので、私は自分のからだを示し、「ウェスレーはほぼこのぐらいの体格です!」と言いましたら、皆さんは笑ってうなずいておられました。当時のイギリス人としては小柄だったようです。では、イエス様のからだの大きさはどのくらいでしょうか。『聖書』には書かれていません。父ヨセフは大工で、イエス様は手伝いもしたでしょうから腕には筋肉がつき、体力は相当あったのではないでしょうか。

 「あなたがたはキリストのからだ」(27節)とはどういうことでしょうか?「教会堂」という教会の建物がキリストのからだなのではありません。そこに集まる私たちひとりひとりがキリストのからだとされているのです。これは、非常に畏れ多く、光栄なことではないでしょうか。キリストは、私たちのために十字架で死なれ、3日目に復活されて神の子どもとしてくださっただけでなく、私たちをご自分のからだとしてくださったのですから。キリストは私たちをご自分のからだとして大切にし、守り、導いてくださいます。

2.キリストと私たちとのつながり(コリント人への手紙 第1 12章27節)

 私たちがイエス様を信じて洗礼を受けて「キリストのからだ」とされたということは、ひとりひとりがイエス様とつながったということです。それも、イエス様をただ知っているというだけでなく、イエス様からの恵みといのちが注ぎ込まれて自分が生かされているということです。イエス様の方でも、私たちをご自分のからだの一部として知っておられ、今の自分を、痛みを、悩みを、誰よりもご存じです。イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)と言われました。イエス様からのいのちと恵みが私たちに流れ込み、私たちはいやされ、主が喜ばれる、自分ならではの実を結んでいきます。

 キリストのからだとされたということは、私たちお互いがどんなに違っていても、キリストにとってなくてはならない「からだの一部分」だということです。ある人は「自分は何もできずダメだ」と思い込んだとしても、「キリストのからだの一部分」であることは変わらず、「キリストのからだ」に必要な存在なのです。15節をお読みします。「あの人はどうも苦手だ」と思ったとしても、その人も「キリストのからだ」に必要な存在なのです。21~22節をお読みします。つまり、自分を誰かと比べる必要はありません。違っていてあたりまえ。違っている私たちお互いを、キリストはご自分のからだとして、ご自分といのちのつながりを与えてくださいました。キリストのお心は何と広く豊かなのでしょうか!

3.からだはキリストをあらわす(コリント人への手紙 第1 12章27節)

 「○○さんてどんな人?」と聞かれて、「明るい人」とか「やさしい人」とか答えるかもしれませんが、やはり「背の高い人」とか「少し小柄な人」など、その人のからだの特徴を言う場合もあるでしょう。からだは、その人を具体的にあらわします。「あなたがたはキリストのからだ」(27節)と言われる時、イエス様を信じて教会に加えられた私たちは「キリストのからだ」として、キリストがどのようなお方かを具体的にあらわしているのです。

 教会はペテロやヨハネなど初代の教会から約2000年間、キリストのからだとして、キリストをあらわしてきました。私たちの教会もその20分の1(決して短くはない),100年間、キリストのからだとして歩み、今の場所に移転してから57年間、この地域の人々はこの教会に集まる「キリストのからだ」である私たちを見て、キリストを見て来たのです。

 キリストは何のために来られたのでしょうか?「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」(マタイ9:13)とキリストは言われました。教会の私たちは、「キリストのからだ」ですから、こう言われるキリストの心を表わすのです。また、キリストは「仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」(マルコ10:45)と言われました。私たちは、この「キリストのからだ」として、人々に仕え、お互いに仕え、自分を与えるのです。

Ⅲ.むすび

 イエス様は教会を建物にたとえて、「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」(マタイ16:18)と言われました。このイエス様の宣言と約束に基づいて今日まで導かれてきたイエス様を信じた人々の集まりである教会は、「わたしの教会」と言われるほど、イエス様のお心の中心にあります。「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」(ヨハネ10:10)とイエス様は言われました。イエス様を信じてかろうじて天国に行けるというだけでなく、神様と共に歩む豊かないのちに私たちを招く神様のお心の中で、教会はその中枢にあります。自分がキリストの尊いからだの一部とされたことを覚え、キリストのからだとして今週、歩ませていただきましょう。 

(記:牧師 小暮智久)