2023年5月7日 礼拝説教 「実現する神の約束」

聖書: ルカの福音書 24章44~49節

Ⅰ.はじめに

 誰かと約束することがあるでしょうか?たとえば、誰かとの待ち合わせの約束などは、日常的な約束でしょう。電車などの時刻表は、「その時間に来ますよ」という鉄道会社などの約束と言えるかもしれません。その職場に自分が雇われたなら、そこへ出勤するのは自分と職場との約束と言えるでしょうし、相手を生涯愛し続けますという結婚という誓約(約束)もあります。約束できるのはなぜか?相手への信頼と相手に応えようとする誠意があるからでしょう。待ち合わせの約束通りに会えた経験が重なれば、お互いの信頼関係はさらに深まることと思います。この世界で最も信頼できる、確かな約束とは何でしょうか?

 世界のキリスト教会は今、イースター(4月9日)から聖霊降臨日(5月28日)の間の復活節という時期を過ごしています。さきほどお聴きしたのは、イエス様が復活された日曜日の夜と思われる場面でイエス様が語られたことです。神様の約束を共にお聴きしましょう。

Ⅱ.みことば

1.書かれた約束(ルカの福音書 24章44~45節)

 復活されたイエス様は、ご自分が幽霊でなく、弟子たちが手で触れ、物を食べられる「生きたからだ」だと示すため、焼いた魚をお食べになりました。この復活後のイエス様のからだは、イエス様が再び来られる日に私たちに与えられる「復活のからだ」の初穂、見本です。私たちが「新しい天と地」に住むその時には、お互いに誰かがわかり、握手やハグもでき、そこにあるおいしい食べ物を食べられる「復活のからだ」で生活していきます。先週の礼拝ではそのようなみことばを聴きました。「使徒信条」で「身体のよみがえり・・・を信ず」と今週も告白するのは、「神様のそのような約束を私は信じます」という表明です。

 復活されたイエス様は、そのあと何を語られたか?44~45節をお読みします。「モーセの律法と預言者たちの書と詩篇」(44節)とは、今の私たちが『旧約聖書』と呼ぶ書物の全体を指す当時の言い方です。『旧約聖書』の「約」は「約束」「契約」の「約」です。「モーセの律法」(創世記~申命記)や「預言者たちの書」(イザヤ書~マラキ書など)や「詩篇」(を代表とするヨブ記~雅歌など)には、神様の約束があります。イスラエルの民は神様の約束を信じ、神様と契約を結んだのでした。それがただの口約束ではなく「書いてある」(44節)という事実は重要ではないでしょうか。約3500年前、ヘブル語という文字で粘土板や羊皮紙などに書かれたので、その写本が残り、今も読むことができます。1階集会室には約2000年前の詩篇の写本のコピーを掲示していますので、昼食の時にご覧ください。

 その神様の約束の内容は何か?「わたしについて」(44節)と言われたように、キリスト(救い主)についての約束です。「すべて成就しなければなりません」(44節)とは約束の確かさを意味します。何よりも確実で、必ず実現する。それが神様の約束ではないでしょうか。

2.実現する約束(ルカの福音書 24章46~49節)

 神様が『旧約聖書』で語られた約束とは、キリスト(救い主)がどうなって、私たちとどのように関係するという約束なのでしょうか?46~48節をお読みします。イエス様が『旧約聖書』に書いてあると言われた約束の中身は、次の3つに分けられるでしょう。

 (1)キリストは、苦しみを受ける。・・・例えば、イザヤ53:5~6

 (2)キリストは、死人の中からよみがえる。・・・例えば、詩篇16:10

 (3)罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。…イザヤ49:6,66:19

キリストについてのこれらの神様の約束は、どうなったでしょうか?

 (1)は、イエス様が十字架につけられ、神様に対する私たちの背きのために死なれたことによって、神様の約束はその通りに実現しました。

 (2)は、イエス様がお墓に葬られて3日目の日曜日、死から復活されたことによって、神様の約束はその通りに実現しました。

 (3)はここから実現していく約束です。それはキリストによる罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に伝えられるという約束です。

 「マルコの福音書」では「すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(16:15)という命令ですが、「ルカの福音書」では「悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(24:47)という約束として書かれているのが特徴です。「悔い改め」とは「向きを変えること」です。私たちが今まで無関心だった神様の方を向き、イエス様の身代わりの死と復活のゆえに、神様に対する私たちのすべての背きが赦され、そのあとも毎日、神様の方を向き、神様と共に生活するように変えられ続けるような「悔い改め」です。そのような「悔い改め」(神様への方向転換)が全世界に伝えられることが、『旧約聖書』に書かれていた神様の約束だと言われたのです。それは、エルサレムから始まり、あらゆる国々の人々へという約束です(イザヤ2:2,3)。日本の私たちにキリストが伝えられたのも、この約束の実現です。私たちがイエス様を信じ、背きを赦され、神様の子どもとされ、洗礼を受けて神様の家族である教会に加えられたことも、『旧約聖書』での神様の約束の中で、私たちそれぞれの応答によって実現したことなのです。

 キリスト教会もまた、『旧約聖書』でのこの神様の約束の中で存在しているということを覚えましょう。イエス様の弟子たちが伝道したのは、自分の仲間を増やし教団を大きくし、全世界に勢力を拡大したかったからではありません。アジアの西の町エルサレムから全世界にという神様の約束の中で、アジアの東の日本にもキリストが伝えられ、「悔い改め」という応答によりキリストを信じる人々が起こされ、その人々の集まりとしてのキリスト教会がここ東住吉区の湯里にもかたちづくられたのです。ですから、この教会の目的は、この教会それ自体の維持や発展ではありません。もし、自分たちの教会の維持や発展だけが目的になると、伝道は会社の宣伝や営業活動のようになり、洗礼を受ける人数がノルマのようになる危険があるのではないでしょうか。この教会の存在も、伝道の活動も、神様の約束の中でなされ、キリストを信じて洗礼を受ける人が起こされるのは、目的ではなく結果、神様の約束の実現、まさに「実」の「現われ」ではないでしょうか。新しい会堂の建築もそうです。それは目的ではなく、神様の約束と導きの中で、私たちが神様の民・神様の家族として歩むことに伴って実現する、まさに「実」の「現われ」ではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 神様の約束に対して、私たちはどう関わるか?48節をお読みします。「証人となりなさい」とは命じられていません。「証人となります」と約束されています。キリストによって罪の赦しの約束を実現された神様の誠意に対して、自分の自由な意志で「向きを変え」、感謝してキリストを信じるという応答をした人は、すでに「キリストの証人」です。「父が約束されたもの」(49節)により「いと高き所から力を着せられる」(49節)とあります。今日、聖餐をともに受け、聖霊である神様からの力を着せられ、神様の約束がこの自分にどのように実現したか、その証人として歩ませていただきましょう。

(記:牧師 小暮智久)