2023年4月16日 礼拝説教 「日曜日はイエス様の日」
聖書: ヨハネの福音書 20章19~29節
Ⅰ.はじめに
新聞をお読みになるでしょうか?同じ日の新聞でも地方によって紙面が少しずつ違うようです。読む人の住む所が違えば、必要な情報や関心の高い記事が違ってくるのも理由の一つでしょう。先日の黄砂についての記事も北海道と大阪では違っていたかもしれません。
先週の日曜日はイースターで、イエス様の復活記念日でした。イエス様の復活という大事件を報じている『聖書』の4つの「福音書」の記事は、読み比べてみるとかなり違っています。なぜだろうかと、自分なりに調べ、考えてみました。理由の一つは、新聞と福音書は同じだとは言えませんが、読者がどんな人かという想定の違いかもしれません。もう一つには、著者が神様に導かれて書いた際、その人の個性や関心も生かされたようですから、それゆえの違いもあるのではないでしょうか。内容の違いはあっても、4つの福音書の間で矛盾はないように思うのですが、いかがでしょうか。今日は、ヨハネの福音書にしかない記事から、復活の日と次の日曜日に何があったのか、ともにお聴きしましょう。
Ⅱ.みことば
1.日曜日に何が(ヨハネの福音書 20章19~25節)
「その日、すなわち週の初めの日」(19節)とは今の日曜日です。約2000年前の西アジアのユダヤ地方の日曜日は、1週間の仕事始めの日、労働の日でした。イエス様の弟子たちはその日をどう過ごしたのかわかりませんが、1日が終わる夕方、ある部屋に集まっていました。彼らはどんな気持ちだったか?「ユダヤ人を恐れて」(19節)とあります。弟子たちもユダヤ人でしたが、ここでのユダヤ人とはイエス様を捕らえて十字架による死刑に追いやった人々でしょう。弟子たちは自分たちも捕まるのではないかと恐れていたのです。
その日、今年で言えば先週の日曜日、何が起きたか?「イエスが来て彼らの真ん中に立ち」(19節)とあります。おととい十字架で死刑になり、墓に葬られたイエス様がそこに来られた。弟子たちはその日の朝、女性たちからお墓にイエス様のおからだがなく、イエス様はよみがえったと御使いに告げられたと聞いていましたが、信じられませんでした。その弟子たちの真ん中にイエス様が来られ、「平安があなたがたにあるように」(19節)、その地の言葉では「シャローム」と言われたのです。イエス様は、彼らにその時必要な「平安」をくださいました。また、イエス様は「手と脇腹」(20節)を示されました。彼らは、十字架に釘付けられた手の傷、ローマ兵に槍で刺された脇腹の傷を見て、確かに十字架につけられた同じイエス様だとわかったでしょう。イエス様の傷、その死と復活により、神様のお心を傷つけた私たちすべての人の背きが赦され、神様の子どもとされる救いが完了したのです。弟子たちは恐れから喜びに変えられました(20節)。復活されたイエス様を『聖書』によって見つめる時、今の私たちも恐れから喜びに変えられるのではないでしょうか。
その喜びは、自分だけにしておくことができません。人々に伝わります。21節をお読みします。父なる神様がイエス様をこの世界に派遣されたように、イエス様は私たちを今週、人々の所へ派遣されます。自分の力だけで、自分ひとりだけで行くのではありません。「聖霊を受けなさい」(22節)と言われた通り、イエス様を信じた人には聖霊が与えられ、聖霊である神様が同伴してくださり、私たちは遣わされます。それは、喜びをもってイエス様こそがキリスト(救い主)だと証言するためです。私たちの証しを聞き、イエス様を信じる人は、「神様による罪の赦し」を受けます。「赦さずに残すなら」(23節)とは、その人がイエス様を拒み、罪が赦されないままということでしょう。その人のためには祈りましょう。
その日曜日、そこに一緒にいなかった人がいます。24節をお読みします。なぜいなかったのか、わかりません。トマスがいなかったことをイエス様は責めてはおられません。ほかの弟子たちが「私たちは主を見た」(25節)と言ったのは「証し」であり、「主にある交わり」の芽生えではないでしょうか。それがいつなのか、日曜日の夕方の直後でほんの少しのすれ違いだったのか、月曜日とか数日たってからなのか、わかりません。ほかの弟子たちは、トマスのために「彼も復活の主と会えますように」とお祈りしたのではないでしょうか。私たちも、様々な事情で礼拝に一緒にいなかった人々のために祈りましょう。
「自分で確かめるまでは信じない」と言ったトマスの言い分は、現代人にはよくわかります。当時のほかの弟子たちはトマスを「疑い深い人だな」と思ったかもしれませんが、実に「科学的な考え方」だとも言えます。あるいは、「とても主体的で人に流されない態度」と言えるかもしれません。このあとも弟子の仲間はトマスのために祈ったに違いない。礼拝を休んだ時、自分のために祈ってくれている仲間がいることを覚えましょう。
2.次の日曜日に何が(ヨハネの福音書 20章26~29節)
「八日後」(26節)とは、当日も含む数え方ですから翌週の日曜日ということです。イエス様の弟子たちはまた集まっていました。当時の休日と礼拝の日は土曜日でしたが、「日曜日はイエス様が復活した日だ」と記念して集まる「日曜日は主の日、イエス様の日」「日曜日は礼拝の日」とする変化の芽生えがここにあります。今度はトマスも一緒です。
その日、今年で言えば今日の日曜日、何が起きたか?前の週の日曜日と同じことが起きたのです(26節)。しかも、イエス様は特別にトマスに語りかけます(27節)。このイエス様の呼びかけには、前の週に一緒にいなかった人への配慮が、何らかの事情で主にある交わりから離れていた人への配慮が満ちているのではないでしょうか。27節をお読みします。イエス様はトマスが先週仲間に言ったことばと彼の思いや疑いを知っておられました。また、イエス様はトマスが「信じる者となるように」と願っていました。イエス様は1週間、特別にトマスのために祈られたのではないでしょうか。しかも単に「信じなさい」ではなく「信じる者になりなさい」と言われた意味は何だろうかと考えさせられます。
この呼びかけに対して、トマスの応答は即座でした。「私の主、私の神よ」(28節)とイエス様を呼ぶのは、最も短い信仰の告白(表明)だと言われます。イエス様はこの告白を受け止め、承認してくださいました。29節をお読みします。「見たから信じた」ということばからは、確かめたうえで信じるという信仰のもち方をもイエス様は見守ってくださることが伝わってきます。また、「見ないで信じる人たち」ということばからは、イエス様の弟子たちによって、のちには『聖書』のことばで、「イエス様は主である」と信じる約2000年間のキリスト教会の人々や今の私たち、これから信じる人々の幸いが伝わってきます。
Ⅲ.むすび
イエス様が復活された日曜日はのちに「主の日」と呼ばれ、礼拝の日となりました。「主の日」は「イエス様の日」という意味でもあります。イエス様の十字架と復活により、土曜日が「安息日」として労働禁止であった律法から私たちは自由にされましたが、その自由を「イエス様の日」である日曜日には、「イエス様のために」「イエス様と共に」「神様の家族と共に」過ごすために使い、「安息の日」として過ごすのです。
(記:牧師 小暮智久)