2022年10月16日 礼拝説教 「ひとりではない」
聖書: 列王記 第1 18章16~24節
Ⅰ.はじめに
全世界では3人に1人はイエス様を信じており、仏教を信じる人は100人に6人と言われています。日本ではイエス様を信じる人は100人に1人以下と言われ少ないです。私が小学3年生頃から隣の宣教師の家の「教会学校」に通い始めた時、子どもたちが約20人来ていました。しかし、6年生になると同じ学年の人は私以外にはひとりだけ、学校の同じ学年では教会に行っている人は誰もいなかったようです。すると、日曜日に教会に行き続けるのはむずかしくなります。多くの人は日曜日を自由に過ごしていて、友だちに誘われれば断りにくく、家族でイエス様を信じているのが自分だけだとすれば、信じていない人たちに流されやすいのではないでしょうか。その時大事なのは、自分が何を選ぶかです。
この教会でも「教会学校」が日曜日朝9時から開かれています。「教会学校」では今、「イスラエル王国の分裂」というテーマで、目標は「生けるまことの神を恐れ、神のことばに従って生きる」ということです。生きているまことの神様が、この世界と私たち人間をよいものとして造られました。その後、人間は神様に従わないことを選び、神様から離れてしまいますが、神様は人間とのつながりを、「神の国」を回復しようとアブラハムという人を選び、その子どもや孫を「イスラエル」という民族とされました。イスラエルにはやがて王様が立てられますが、国は北と南に分かれてしまい、北の国では多くの人がバアルという人が作った神を拝み、生きているまことの神様を礼拝する人は少なくなってしまいます。約2850年前のことです。今の日本と似ているのではないでしょうか。そのような時、多くの人に流されず、まことの神様を礼拝しつづけるには、どうすればよいのでしょうか?
Ⅱ.みことば
1.悪口を言われても、ひとりではない(列王記 第1 18章16~19節)
アハブ(16節)という人は王様です。奥さんがバアルを神と信じており、王様もバアルを礼拝するようになりました。私たちが結婚する時に、だれを選ぶかというのはとても大切です。イエス様を信じている人は、結婚する時は同じイエス様を信じている人を選びましょう。当時のイスラエルの国は、王様の影響もあり、多くの人々がバアルを神として礼拝していました。オバデヤ(16節)という人は王様の家来ですが、生きておられるまことの神様を信じていました。自分で選んだのでしょう。エリヤ(16節)という人は預言者と言って、生きておられるまことの神様を信じ、その神様のことばを預かって人々に伝える人です。この時、イスラエルは雨が降らず、水や食べ物が少なくなっていました。アハブ王は預言者エリヤに会って「このような災い(困ったこと)をもたらしたのは、おまえか」と悪口を言います(17節)。本当はアハブ王がまことの神様を礼拝しないので、この災いが起きたのでした。ですから、エリヤは堂々と王様に答えています(18~19節)。エリヤは王様と共にいるオバデヤがまことの神様を信じていると知っていましたから、心強かったのではないでしょうか。エリヤはひとりではなく、仲間がいたのです。今の私たちもひとりではありません。家で、学校で、イエス様を信じているのは自分ひとりだけかもしれません。しかし、教会には仲間がいます。同じ教団のほかの教会には同じぐらいの年代の仲間がいます。ほかの多くの人々に流されそうになっても、自分がひとりではないことを覚えましょう。
2.自分だけでも、ひとりではない(列王記 第1 18章20~24節)
預言者エリヤは「カルメル山という山の上に、バアルの預言者を集め、イスラエルのすべての人々の前で、生きておられるまことの神様はどちらかはっきりさせよう」と提案し(19節)、アハブ王は人々を集めました(20節)。エリヤは決断を迫ります。21節をお読みします。どの神を信じるかは、自分の自由ですが、選ぶ責任は自分にあります。まことの神様とは、多数決で多くの人が信じているかどうかで決まるのではなく、たとえ信じる人は少なくても、そのお方が生きておられるかどうかで決まるのではないでしょうか。選ぶように迫られてもイスラエルの民は一言も答えませんでした。で、エリヤはどうしたか?22~24節をお読みします。22節では「私一人」が強調されているようです。「エリヤ」対「バアル」、「ひとり」対「450人」というふうに見えます。しかし、ほんとうは「まことの神様」対「人々」ではないでしょうか。生きておられるまことの神様が、イスラエルの民と対決しておられると言えるかもしれません。どちらの側につくかが問われています。エリヤは自分だけであっても、ひとりではありません。自分を見捨てず、いつも共におられるまことの神様の側につくことを選びました。あなたは、どちらの側につきますか?
3.どちらがまことの神様か?(列王記 第1 18章25~40節)
このあと、対決が始まります。牛をささげ物として神を呼び、火を下して答えるお方が生きておられるまことの神様だとする対決です。
まず、バアルを神と信じる預言者たちが牛をささげ物とし、バアルを呼んで祈り始めます。450人ですから大きな声でしょう。朝から昼まで祈ります。何も起こりません。午後も祈ります。地上の声は大きかったですが、天は静かで答えは何もありません(25~29節)。
次はエリヤの番です。イスラエルの民全体を近寄らせ、12の石で祭壇を築き直しました(30~31節)。イスラエルの国は今、北の10部族と南の2部族に分かれていますが、エリヤは、もともとの部族の数である12の石で祭壇を造ることで、自分たちが「神の民」であり、「神の国」を指し示す国民であることを思い出させようとしたのではないでしょうか。エリヤは、祭壇の上に牛を載せ、自然に火がついたと言わせないために、水をたくさんかけます(32~35節)。雨が降らなくて困っていたはずなのに、この水はどこにあったのかなと思いますが、エリヤはあえて自分に不利なようにして、祈り始めます(36~37節)。何が起きたか?火がくだり、ささげ物も石も焼き尽くし、水も蒸発させてしまいました(38節)。
これを見たイスラエルの民はどうしたか?39節をお読みします。「主こそ神です」と答えたのでした。まことの神様は生きておられます。呼べば答えてくださるお方です。
Ⅲ.むすび
教会から帰って、家や学校や職場でイエス様を信じているのが自分だけだとしても、ひとりではないことを覚えましょう。教会に、教団のほかの教会に、世界中の教会に、イエス様を信じる人々が、神の民が大勢いることを思い出しましょう。また、イエス様を信じる人が少ないから心細いとか、身近な人や多くの人が信じているから安心できるとか、まことの神様のしるしは信じる人数ではないことを覚えましょう。人が考え作り出した神は生きていません。まことの神様とは生きておられ、私たちひとりひとりを生かしているお方です。あなたのために十字架で死んでくださり、3日目に復活されたイエス様を信じ続けるということは、自分で選び取ることだということを覚えましょう。
(記:牧師 小暮智久)