2022年7月10日 礼拝説教 「望まないところに」

聖書: ヨハネの福音書 21章18~19節

Ⅰ.はじめに

 今日は7(なな)と10(とお)の語呂合わせで「納豆の日」だそうです。関西納豆工業協同組合が関西での納豆の消費拡大のために1981年に制定、1992年に全国に広がったようです。

 そして今日、7月第2日曜日は、私たちの教会が属する日本フリーメソジスト教団の「伝道献身者奨励日」です。「献身」とは、手元の辞書では「自分の利害を考えず力をつくすこと」と書かれていました。教会では「献身」と言うと「牧師や宣教師になる」というイメージがあります。しかし、『聖書』では、イエス様を信じたすべての人に、「からだを、神に・・・ささげなさい」(ローマ12:1)と「献身」が勧められています。今日がその「奨励日」である「伝道献身者」というのは、すべての教会員に勧められている、広い意味での「献身」がまずあって、その中で特に「伝道に献身して牧師などになる人」を指しています。今日は、イエス様を信じた人皆に求められている広い意味での「献身」、自分のからだを神様に献げるとはどんなことかをみことばに聴き、その意味での「献身者」の集まりである教会の中から、主が「伝道献身者」を呼び出してくださるように祈りたいと思います。

Ⅱ.みことば

1.自分の望むところを(ヨハネの福音書 21章18節前半)

 先ほどお聴きしたこのことばは、イエス様が弟子のペテロという人に言われたことです。すぐ前でイエス様は彼に「わたしを愛していますか」と3回聞いておられます。なぜ3回も聞いたのかと言えば、ペテロがこの数週間前、「あなたもイエス様の弟子ですよね?」と人々から聞かれた時、「イエス様なんて知らない」と3回も言ってしまったからでしょう。それは、イエス様がユダヤ人の指導者に処刑されるために捕らえられた木曜日の夜でした。ペテロは遠く離れてイエス様について行きました。人々にこう聞かれたペテロは、イエス様の弟子だと認めると自分もつかまるのではないかと恐れ、自分を守りたかったのです。

 しかしイエス様は、ご自分を守ることなく、人々により十字架に釘付けにされました。それは私たちのためです。「私」という存在を造り生かしているのが神様というお方であるのに、このお方に背いてきた私たちひとりひとりの身代わりとなって、イエス様は処刑されたのです。そのご遺体は墓に葬られました。しかし、神様は3日目の日曜日、イエス様を死から復活させました。それは死者の復活の初穂、「神の国」の実現の新たな一歩です。

 復活後のイエス様がガリラヤ湖の岸辺で朝、ペテロに「あなたは若いときには」と言われたこれまでの彼の生き方とはどのようなものか?それは、「自分の望むところを」歩くという生き方です。たとえば、マタイ16:13~18を読んでみましょう。ほかの弟子たちが黙っている中、ペテロが答えるのはえらい!しかし、そのあと、イエス様が苦しみを受けて殺されると予告されるとペテロは「そんなことがあなたに起こるはずがない」とイエス様のことばを否定してしまい、イエス様に厳しく叱責されるのです(マタイ16:21~23)。この時のペテロもイエス様を信じています。が、その信仰は、自分が望む救い主のイメージ(敵対する者に勝利する力強いお方)が中心だったのではないでしょうか。私たちの信仰に、そのような自己中心的なものがあるなら悔い改めて、本当の意味でイエス様中心の信仰に切り替えていただく必要があるのではないでしょうか。「献身」というと「自分が誰かのために懸命に」ですが、大事なのは「相手が何をしてほしいか」で、相手の願い、イエス様の願いに合わせていく自分に切り替えることが、本当の意味の「献身」ではないでしょうか。

2.望まないところに(ヨハネの福音 21章18節後半~19節)

 「しかし年をとると」というのは、ペテロのこの先の生き方を示しています。イエス様を信じて、年を重ねていく中で、自分の望むところを歩くような生き方から、自分が望まないところに連れて行かれるという生き方へと変えられていくと言われているのです。

 18節はペテロの「死に方」(19節)を示したイエス様のことばです。私は以前、「年をとると自分で杖をついて」ならわかるけれども、なぜ「両手を伸ばし」(18節)と言われているのかが疑問でした。今回気づかされたのは、両手を伸ばすというのは、当時十字架につけられる人が処刑の執行人に命じられる動作だということです。また、「ほかの人があなたに帯をして」という箇所の「帯」は『聖書』が西洋ではなく東洋的な文化を背景に書かれたことを思わされますが、自分で帯を結べないほど年をとったということではありません。当時、処刑執行人が十字架につける前に受刑者の腰に帯(ひも)をしめる習慣があったそうで、これもペテロが「どのような死に方で神の栄光を現すか」(19節)を示しています。

 つまり、今までのペテロは「自分で帯をして、自分の望むところを」(18節)、自分が主体的に歩いてきたが、これからはその反対に「ほかの人があなたに帯をして、望まないところに」(18節)、連れて行かれるような、受け身の生き方になるというのです。その先には十字架での死があり、この転換こそが本当の「献身」と言えるのではないでしょうか。

 カトリック教会の司祭ヘンリ・ナウエンは言いました。「わたしにとって重要なのは、イエスがなさったことによってではなく、受けた仕打ちによって、使命を果たされたと知ることです」(『イエスの示す道』,p.169)。また「イエスの道をたどりたいと願うなら、働きかけから受け身へのイエスの転換を、わたしたちもしなければなりません」(前掲書,p.170)と述べてヨハネ21:18を引用しています。同じことを藤木正三という牧師が述べています。「私のそれまでの生き方は、自分で勝手に帯を締めて、行きたい所へ行くことの連続のようなものでした。・・・周囲の目を意識しながら、実力以上に見せかけようと虚栄心に振り回されて、恥をかかないように、自分の正体をさらさないように、そして他との比較で優位であるようにと、おどおど、びくびくしている浅ましい生き方の連続でした。・・・これからは主に従って、他の人に帯を締められて、行きたくない所へ連れて行かれるように、《したくないことをする生き方》をしていこう、これこそが本当の生き方なのだ、自分にはもうこの生き方しかない、そう思ったのです」(『生かされて生きる』,p.31~33)。

Ⅲ.むすび

 イエス様を信じるすべての人に求められる、広い意味での「献身」とは、主のために自分が望むことをするのではなく、自分が望まないことでも主が望むなら、受け入れていく生き方ではないでしょうか。その先には「自分の十字架」(マタイ16:24)があります。それは、自分は望まないが主が背負うよう望んでいることではないでしょうか。そのような「無条件の献身者」の中から、主は「伝道献身者」を呼び出し、牧師などにお召しになります。私が牧師へと召された時にも、人前で話すことや人の一生に深く関わることも含め、自分が望まず自分にできる見通しがない働きへの主の呼び出しを受け入れるか否かを問われたのでした。私たち皆が「無条件の献身者」とされましょう。その中から主が「伝道献身者」を、将来牧師とされる人を、召してくださるよう祈りましょう。

(記:牧師 小暮智久)