2022年6月12日 礼拝説教 「イエス様だけが」
聖書: 使徒の働き 4章5~14節
Ⅰ.はじめに
花は好きですか?春にはサクラ、夏にはひまわり、今はアジサイがきれいでしょうか。それぞれの季節にそれぞれの花がきれいに咲くのは、考えてみると不思議だなと思います。
今日は「花の日」と呼ばれる日で、166年前の1856年、6月第2日曜日、アメリカのある教会で、子どもと大人が共に礼拝をささげたのが始まりです。礼拝堂には多くのお花が飾られ、レオナード牧師は子どもたちに『聖書』をプレゼントし、神様の祝福をお祈りしました。この礼拝は各地に広がり、「子どもの日」とも呼ばれるようになり、礼拝後に、礼拝堂のお花を持って日頃お世話になっている人に感謝したり、お見舞いに行ったりするようになりました。この教会でも以前、教会学校の子どもたちが、駅や交番や高齢者の施設などにお花を持って行ったことがあり、またできるといいなあと思います。
日曜朝の教会学校は先週の聖霊降臨日から「教会の誕生と宣教の始まり」という単元になり、今日はイエス様の弟子たちが大胆にイエス様を伝えた場面です。共に聴きましょう。
Ⅱ.みことば
1.議会での問い(使徒の働き 4章5~7節)
「翌日」(5節)とは何の翌日でしょうか?直前の4節にはイエス様を信じる男の数が5000人ほどになったと書かれていて、その次の日ということです。なぜ、そんなにも多くの人が、イエス様を信じるようになったのか?そのきっかけとなる事件が前の日、エルサレムの神殿の門で起きたのです。3:1~10をお読みします。生まれつき歩けない人が、イエス様の名前によって、言わば、十字架で死んだはずのイエス様の力によって歩けるようになり、飛び跳ねて、神様を讃美するようになったという出来事です。すごいですね。しかも、それを行なったのは、人々につかまるのがこわくてイエス様なんて知らないと言ったことがある弟子のペテロとヨハネでした。驚いた人々が集まって来たので、ペテロは「これは私たちが自分の力で歩かせたのではなく、イエス様のお名前によることです」(4:12,16)と話し、「今こそ、神に立ち返りなさい」(4:19)と訴えたのでした。
神殿で起きた大さわぎ、しかもイエスという名前がきっかけだと聞いてだまっていられなくなったのは、約2か月前にイエス様を十字架につけた人々です。「イエスを死刑にしてもう終わったはずなのに、イエスのことでまたさわぎを起こすのか」とこの二人を捕らえ(4:1~3)、その翌日、ユダヤの指導者による裁判のような議会が開かれたのでした。集まったのはどんな人々か?5~6節をお読みします。まさにイエス様を十字架で処刑するよう、ローマの総督にお願いしたユダヤの指導者たちです。ペテロとヨハネは何を問われたのか?7節をお読みします。「何の権威によって」「だれの名によって」という問いでした。
2.ペテロの答え(使徒の働き 4章8~14節)
私は以前、身近な人の裁判の傍聴をしたことがあります。裁判長が、訴えられている人に「これについては、どうですか?うそを言うと罪になりますよ」という主旨のことを言われた時、答える人だけでなく、見守っているだけの自分も緊張したのを覚えています。
ずらりと並ぶユダヤの指導者たちの前で、イエス様の弟子のペテロも、かなり緊張し、心細く感じたのではないでしょうか。あなたがそこにいたら、どうでしょうか?「だれの名によってあのようなことをしたのか」(7節)という問いにペテロはどう答えたか?8~10節をお読みします。「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです」(10節)。ペテロはこう証言したのです。以前、イエス様を知らないと3度も言ったあの同じペテロとは思えない、実に堂々とした、大胆なことばではないでしょうか。なぜ、こう言えたのでしょうか?本当にそうだったから(3:6)です。そして、イエス様の約束(ルカ12:11~12)が実現したからです。
ペテロが大胆にイエス様を証しできたのは、聖霊によるのです。「聖霊に満たされて」(8節)と書かれている通りです。問いへの答えはここで終わってもよかったはずですが、ペテロはさらに証ししました。11~12節をお読みします。なんと、ペテロは「旧約聖書」の専門家たちを前にして、この「旧約聖書」のことば(詩篇118:22)が言っていたのはイエス様のことだと言い、このイエス様以外にはだれによっても救いはないと言い切ったのです!
「少しおどしておけば、この二人はおとなしくなるだろう」とユダヤ人の指導者たちは考えていたでしょう。しかし、このペテロのことばで立場は逆転します。「なんだ、この二人は?おれたち専門家を『聖書』のことばで説得しようとしている。この二人の大胆さは、いったいどこから来るのか?」と戸惑い始めたのではないでしょうか。13~14節をお読みします。「二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた」(13節)というのは興味深いですね。それまでは、この二人がイエスの身近な弟子だとはわからなかったのかもしれません。しかし、その態度、その言葉で、この人たちはあのイエスとともにいたのだとわかってきた。今の私たちも、『聖書』を読み、お祈りし、共に礼拝するなど、イエス様とともに過ごしていると、そこからにじみ出てくるものがあるのではないでしょうか。
Ⅲ.むすび
「あなたも、あのイエスの弟子ですよね?」と聞かれ、自分もつかまるのではないかとこわくなり、「そんな人は知らない」と言った以前のペテロを思うと、今日共にお聴きしたペテロの姿は驚きです。彼を変えたのは、何か?それは、ペテロを含め、今の私たちひとりひとりのために十字架で死んでくださり、3日目に復活されたイエス様です。また、復活後、40日間弟子たちと共に過ごしたイエス様が、天に、神様のもとに昇られ、その後10日目に、今年で言えば先週の日曜日に来られた聖霊である神様による変化です。今年の1月、新年聖会で説教をしていた私を画面で見た母が「小さい頃は泣いてばかりいた子がねえ、このように変えてくださったのは神様だわ」と言ったことと重なるように思います。
今の私たちも、人々からどう思われるかとこわくなることがあるかもしれません。しかし、すべての人々のために十字架にかかり、3日目に復活されたのはイエス様だけ、イエス様だけがすべての人の救い主です。「この方以外には、だれによっても救いはありません」(4:12)。聖霊の助けにより「イエス様だけが救い主です」と信じ続け、人々から聞かれた時には聖霊に導かれて大胆にイエス様を証しさせていただきましょう。
(記:牧師 小暮智久)