2022年6月5日 礼拝説教 「主に喜ばれるために」

聖書: エペソ人への手紙 5章10~20節

Ⅰ.はじめに

 先週は両親の納骨のためにお祈りいただき、ありがとうございました。埼玉県の実家の5月のカレンダーの31日(火)の欄に母の字で「納骨」と書かれていました。それは、3月に召された父の納骨予定日で、まさかその日に自分も納骨されるとは思いもしなかったでしょうし、家族も考えてもみませんでした。いのちは自分のもののようで、自分の自由にはならない。いのちは主からの授かりもの、預かりものだとしみじみ思います。納骨式の翌日、小中学校時代の同級生で、教会図書の『・・・天国ガイド』の翻訳者が属するカトリック所沢教会を、その同級生に案内してもらいました。高校時代に私がその人を教会に誘いましたが来られず、約40年後にその人に教会を案内してもらえて感慨深かったです。

 今日は「聖霊降臨日(ペンテコステ)」です。聖霊なる神様に思いを向けましょう。また、私たちの教会の今年度の総主題は「主に喜ばれる教会」です。主に喜ばれるためには、どうしたらよいかということと聖霊様との関わりを、みことばから共に聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.主に喜ばれるためには、吟味が必要(エペソ人への手紙 5章10~14節)

 「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい」(10節)。これが今年度の東住吉教会の主題聖句です。「主に喜ばれること」とは何か?ちょうど小さい子どもが親に喜んでもらえることって何だろうと考えるのと同じように、イエス様を信じて神様の子どもとされた人が、主に喜ばれることは何かと考え始めたとしたら、それだけで大きな一歩です。なぜなら、イエス様を信じる前は自分が喜ぶことや人に喜ばれることは考えても、主に喜ばれることは考えなかったからです。しかも、実際にできるかどうかはともかく、とにかく考える、それを意識する、吟味するというだけで、それは大切で尊いことではないでしょうか。

 ここには「暗闇」と「光」の対比があります。「暗闇のわざ」(11節)とは主に喜ばれないこと、「明るみ」(11,13節)とは主に喜ばれることでしょう。主に喜ばれないことには、どうしても「やましさ」がつきまとうので、「暗闇」に隠したくなります。しかし、父なる神様が送ってくださった「まことの光」であるキリストは、私たちの罪のために十字架で死なれ、3日目に死から復活されました。神様が、それほどに私たちを愛し、私たちの存在を喜ぶ(ゼパニヤ3:17)のは、私たちにいのちを与え、愛しておられるからです。このイエス様を信じると、私たちはこのお方の「光」に照らされ、「明るみ」に出されるので、もう隠す必要がなくなります。どんな罪でもキリストは十字架のゆえにお赦しくださいますから、私たちは隠さず告白し、罪を明るみに出せます。光に照らされ、明るみに出されると、罪はその力を失い、私たちはその縛りから解放され、自由になり、「起き上がれ」(14節)ます。起き上がったら、歩き始めるのです。主に喜ばれることを願って歩き始めるのです。

2.そのためには、聖霊の満たしが必要(エペソ人への手紙 5章15~20節)

 歩き方のくせというのは靴のどこがすり減りやすいかなどでわかるのでしょうが、自分では気づきにくいようです。「自分がどのように歩んでいるか」(15節)とは、イエス様を信じてからの生活のしかたのことです。起きてから寝るまでの1日を、自分はどう過ごしているでしょうか?学校や職場や病院やリハビリに行く時間、買い物やそうじ、洗濯や料理などの時間、(子どもも大人もスマホなどで)ゲームをする時間、聖書を読む時間、お祈りする時間、日曜日に教会へ行き礼拝する時間など、自分の過ごし方に「細かく注意を払いなさい」(15節)と命じられています。主に喜ばれるためには、自分の今の過ごし方をよく考えて、自分のくせや変える方がよい所に気づく必要があるのではないでしょうか。

 「知恵のない者」(15節)は「愚か」(17節)とも言われています。これは学力が低いということではなく、神様を知らず、認めず、恐れないことです。その反対が「主のみこころ」(17節)を悟ることです。つまり、『聖書』が語る「賢さ」とは「主のみこころ」(17節)を知り、知るだけでなく行なうこと、すなわち「主に喜ばれること」(10節)を行なう生活です。そう言われても自分の力ではなかなかできないですね。どうしたらよいのでしょうか?

 18節をお読みします。「主に喜ばれる」(10節)ためには、御霊に満たされる必要があるのです。ここには「ぶどう酒」に満たされることと、「御霊」に満たされることの対比があります。この手紙のあて先のエペソ地方はぶどうの産地で、酒の神バッカスがまつられていたそうです。酒に満たされると、酔っぱらって正しく判断できなくなり、行きつく先は「放蕩」(18節)、自己破産や身も心も滅ぼすようなことになってしまいます。しかし、御霊、聖霊に満たされるとどうなるか?イエス様を信じた人には誰でも、聖霊が与えられています。聖霊に満たされたらどうなるか?19~20節をお読みします。聖霊に満たされると、「放蕩」の反対のすばらしいことが自分にもたらされます。何が主に喜ばれることなのかがわかり、行なえるように助けられていきます。「互いに語り合い」(19節)という会話が、「詩と賛美と霊の歌」という神様をほめたたえることばになります。「歌いなさい」(19節)とあるように、思わず出てくる歌が、「主に向かって心から賛美し」とあるように神様をたたえる歌になります。また、神様への「感謝」(20節)がわいてくるというのです。

 では、「御霊」とも言われる「聖霊」とは何か?「満たされる」という表現を聞くと私たちは、コップに満たされる水とか、タンクに満たされるガスとかをイメージしがちです。しかし、「聖霊」は液体や気体などの物質や電力などのような力ではなく、私たちを助け、導いてくださるお方で、神様です。イエス様が天に昇られて10日後、「聖霊」がイエス様の約束の通り、この世界にくだられました。それはどんな様子だったか?使徒2:1~4を見ましょう。聖霊が弟子たちひとりひとりにとどまったように、イエス様を信じた私たちひとりひとりにとどまります。満たされるにはどうしたらよいか?自分の欠けや示された罪を告白し、自分のすべてを聖霊に明け渡し、聖霊の促しを素直に受け入れればよいのです。すると、どうなるか?弟子たちのように、「御霊が語らせるままに」(4節)、聖霊は私たちにも神様がしてくださったことやイエス様が救い主であることを話させくださいます。大事なことは、聖霊は、イエス様を信じる私たちがいかにすばらしいかをあらわすのではなく、イエス様がいかにすばらしいかをあらわすお方だということ。また、聖霊の満たしと言っても、メーターがあるわけでなく、自分はどのくらい満たされたかが大切ではありません。聖霊に自分を明け渡したあとも、考え、判断し、行なうのは自分ですが、ふり返って、自分ががんばったのではなく神様がさせてくださったと栄光を主にささげることができれば、それは聖霊の満たしによるものだったと感謝すればよいのではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 主に喜ばれるためには、吟味することと聖霊に満たされることが必要です。聖餐を共に受け、聖霊なる神様のお働きを受け、その促しに素直でありましょう。

(記:牧師 小暮智久)