2022年5月1日 礼拝説教 「主に喜ばれる教会」
聖書: エペソ人への手紙 5章10節
Ⅰ.はじめに
新年度が始まって1か月が過ぎました。どんな1か月だったでしょうか?また、このゴールデンウィークを含め、これからの1か月をどう過ごしたいと願っておられますか?
私たちの教会は、コロナ禍のために2月の総会は集まることをやめ、書面による採決としました。その総会で承認された新年度の総主題は「主に喜ばれる教会」で、テーマのみことばは「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい」(エペソ5:10)です。総会で承認されたということは、私たちは今年度、何が主に喜ばれることなのかを吟味して、主に喜ばれる教会になろうと決意したことでもあります。このみことばを思いめぐらしましょう。
Ⅱ.みことば
1.何が自分の喜びか?(エペソ人への手紙 5章10節)
何が今の自分の喜びか?人それぞれに、いろいろあると思います。仕事が休みの日にゆっくり寝られることが今の自分の喜びという人もあるでしょうか。欲しい服を買い、おいしいものを食べるのが喜びという人もいるでしょう。痛みやつらいことがなく平穏なことが喜びだという人もおられるかもしれません。何が自分の喜びかは、年齢や状況によって変わり得ますし、これらの喜びは自分だけで完結している喜びとも言えるでしょう。
少し違う種類の喜びもあります。学生時代に、気になっていた女の子を映画にさそい、OKの返事をもらった時のことを覚えています。自分だけでなく、相手がある喜びです。しかし、自分の気持ちだけが先走ると、相手のことを考えることができず、自分のためだけの喜びになってしまいがちです。恋と愛との違いは、このあたりにあるのでしょうか。
相手がある喜びということで言えば、親が退院したとか、子どもが卒業したとか、友だちが資格試験に合格したとか、誰かの喜びが自分の喜びとなる場合もあります。自分にとって身近な人が喜んでいることが、自分の喜びとなるというのは、自分の年齢や状況とは関係がありません。いくつになっても、身近な人の喜びを、自分の喜びと感じられるなら、それは幸せではないでしょうか。結婚生活もしかりでしょう。自分のためだけの喜びではなく、相手が喜ぶことを自分の喜びとして願うには、感情よりも意志が必要となります。
イエス様を救い主と信じて、救われていることを示すしるしは何か?その一つは、イエス様が喜ぶことは何かを求めるようになることです。自分だけの喜びでなく、「何が主に喜ばれることなのか」(10節)を考えるようになるのが救いの結果です。一緒に生活する最も大切なパートナーとなったイエス様に喜ばれることが自分の喜びとなっているでしょうか。
2.何が主に喜ばれることか?(エペソ人への手紙 5章10節)
この「エペソ人への手紙」は、当時のローマ帝国のアジア州(現在のトルコ共和国)の首都エペソを訪ねて福音を伝えたパウロという人が、そこにできた教会にあてて、西暦60~62年に書いた手紙です。その「教会」に対して「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい」(10節)と書かれました。「教会」には、何が主に喜ばれるのかを吟味することが求められているのです。なぜなら、教会は「主のもの」、キリストの教会だからです。
では、今の私たちが「主に喜ばれる教会」となるには、どうしたらよいのでしょうか?そのためには、教会に属する私たちひとりひとりが「何が主に喜ばれることなのか」を吟味し、主に喜ばれることを自分の喜びとして身につけていく必要があります。
では、主に喜ばれること、イエス様に喜んでいただけることとは何か?イエス様が笑顔になられるのは、どんなことでしょうか?反対のことを考えてみてもいいかもしれません。主が悲しまれるのは、どんなことか?イエス様がお心を痛め、悲しまれるのはどんなことか?それらを避け、その反対をこころがけるとき、「主に喜ばれる教会」とされていきます。
主がお喜びになること、それは具体的には何か?それは、ご自分が造り、いつくしんでいるひとりひとりが、ご自分のもとに帰って来ることです。Iテモテ2:4をお読みします。「救われて」とは、イエス様を信じて神様のもとに帰り、神様との関係が回復されることです。神様との関係では背伸びして優等生になる必要はありません。神様との間柄は疲れや不満や文句も言える本音の関係です。しかも、洗礼を受けたことはゴールではなくスタートです。神様との関係が親しくなり、どんな悩みやぼやきや恨みごとでも話せて、ご自身に似てくることが神様の喜びです。Iテサロニケ4:3をお読みします。それは「聖なる者となること」、きよくされること、神様の子どもとして成長することで、そのテーマは「愛」です。神様に対する愛と人に対する愛。実は、神様が御子イエス様の十字架と復活により私たちを「救われた」のは神様の子どもとされたスタートで、神様と人への愛が成長し、成熟していくことこそ、神様の目的であり、喜びです。天の御国での神様との生活、神様の家族との生活は、「救われて」、神様の子どもとして愛が深められた延長線上にあります。
愛は、孤立した生活では深めることができません。誰かとの関わりの中で、時に助けられ、時に傷つき、時に失敗しながら身につけていくものです。イエス様を信じて「救われた」人が、「神様への愛」と「ほかの人への愛」を深められ、育まれるために、「教会」という場が、神様によって備えられていると言えるのではないでしょうか。「教会」では、家族や隣り近所や職場や学校などよりも、もっと多種多様な人と自分が出会います。「天国」ではさらにもっと多種多様な人と共に生活することになるのでしょう。「教会」で、あまりにも自分と違う感覚や考え方の人に出会い、自分の心の狭さに気がつき、時に善意で言ったはずなのに誰かを傷つけ、自分の愛の乏しさに気がつくことがあるかもしれません。あるいは「教会」で思いがけず、自分のことを「わがこと」のように覚えていてくださる人に出会い、慰められ、励まされ、「愛される」とはこういうことかと気づくこともあるかもしれません。神様を共に礼拝する様々な人々との関わりの中で、私たちは支えられ、気づかされ、神様への愛と人への愛を深められ、訓練され、鍛えられていくのです。そのために私たちは、「何が主に喜ばれることなのか」と吟味せざるを得ないのではないでしょうか。
Ⅲ.むすび
「吟味」というのは味わい深いことばですね。辞書には「よく調べて選ぶこと」とありました。様々な方向から調べ、可能な選択肢を考え、何が主に喜ばれることなのかを吟味する。同じことばがローマ12:2では「見分ける」と訳されています。教会堂のこれからを共に考える際にも、様々なことを調べ、色々な選択肢を挙げ、それらを考え合わせ、何が主に喜ばれることなのかを見分け、吟味することが必要ではないでしょうか。何がみこころで、主に喜ばれることなのかを見分けるには、「あなたがたのからだを・・・献げなさい」(ローマ12:1)と言われています。イエス様の十字架と復活により救われ、自分のからだが神様のものとされたことを認めて、神様にささげましょう。聖餐を受けて、何が主に喜ばれるのかを吟味する知恵と、それを行なう力をいただきましょう。
(記:牧師 小暮智久)