2022年4月3日 礼拝説教「イエス様との食事」
聖書: マタイの福音書 26章17~30節
Ⅰ.はじめに
新年度最初の主の日を迎えました。コロナ禍で、家族や親しい人以外の人と一緒に食事をするのがむずかしい日々が続いています。教会でうどんを作って一緒に食べることが、決してあたりまえではなかったと、今さらながらのように実感しています。また、教会でみなさんと一緒に、あのうどんを食べたいなあと願います。そのような日々の中でも教会は「聖餐」というものを大切にしてきました。これは、イエス様と弟子たちとの食事から始まったすばらしい恵みです。誰かと一緒に食事をするというのは、その人との深いつながりや親しい交流のあらわれでもあります。イエス様と弟子たちとのこの食事の場面を通じて、イエス様がどんなに私たちを愛しておられるか、イエス様を共に見つめましょう。
Ⅱ.みことば
1.過ぎ越しの食事の席で(マタイの福音書 26章17~25節)
これはイエス様と弟子たちにとって最後の過ぎ越しの食事でした。年に一度の過ぎ越しの食事とは、「旧約聖書」の時代に、神様がご自分の民イスラエルの人々を、エジプトの奴隷状態から救い出してくださったことを記念する食事でした。その準備については17~19節に書かれています。イエス様は「わたしの時」(18節)というご自分が十字架にかけられる時が近づいたのを意識して、主導権をもって弟子たちに指示をされたのでした。
夕方になって、みなが食卓に着き、食事が始まります(20節)。イエス様を真ん中にして、U字型に彼らは横になり、長イスに三人一組で身を横たえたようです。当時の食事は身を横たえて、左腕のひじで頭を支え、右手を伸ばして食べ物を口に運ぶのが通常でした。
その中でイエス様は厳粛に、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります」(21節)と言われます。弟子たちはみな「主よ、まさか私ではないでしょう」(22節)と言いますが、ユダだけは「先生、まさか私ではないでしょう」(25節)と言います。ほかの弟子たちが「主よ」と呼んだのに対し、ユダだけは「先生」と呼んだのは対照的です。それだけ心が離れていることが表れているのかもしれません。しかし、イエス様は「人の子を裏切るその人はわざわいです」(24節)ととても強い言葉をもって、ユダが裏切るのをやめるように、愛をもってよびかけられたのでした。
2.イエス様の特別なことば(マタイの福音書 26章26~30節)
ここまでは例年の過ぎ越しの食事が、その順番通りに進みました。しかし、ここで、イエス様は特別な言葉を語られたのです。26~28節を読みましょう。イエス様はパンを取って弟子たちに与え、「取って食べなさい。これはわたしのからだです」と言われました(26節)。また、杯を取って弟子たちに与え、「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」と言われました(27~28節)。これは、いつもの過ぎ越しの食事にはない特別な言葉です。しかも、イエス様だけが語ることができる言葉です。
特に「わたしの契約の血です」と言われた「契約の血」に注目しましょう。「旧約聖書」のモーセの時代、神様とイスラエルの民とが契約を結んだとき、雄牛の血が民に振りかけられました(出エジプト24:1~8)。『聖書』のこの箇所は、先週の「週報」に載っている「今日のみことば」で、ちょうど先週3/31(木)に読んだところですね。そのときモーセは「主があなたがたと結ばれる契約の血である」(出エジプト24:8)と言いました。
しかし、イスラエルの民は、神様以外の偶像を拝むようになり、神様のことばに従わず、神様との契約を破ってしまいました。それでも神様は見捨てずに、預言者エレミヤを通して「新しい契約を結ぶ」(エレミヤ31:31)ということを約束してくださいました。新しい契約とは、神様が私たちの心に神様の言葉を書き記し、私たちがみな神様を知るようになり、神様が私たちの罪を赦し、もはや罪を思い起こさないという契約です(エレミヤ31:32~34)。
イエス様が言われた「わたしの契約の血」とは、「旧約聖書」で約束されていた「新しい契約」の実現のための「契約の血」です。それが、このイエス様と弟子たちとの過ぎ越しの食事の翌日、エルサレムの町の外に立てられた十字架にイエス様がかけられ、私たちの身代わりに流される血による契約です。イエス様をキリスト(救い主)と信じた人は、神様との間にこの「新しい契約」が結ばれ、「わたしの民となる」(エレミヤ31:33)とある通り、神様の民のひとりとされたのです。その人の心には「わたしの律法」(エレミヤ31:33)と神様が言われる、神様のことばや神様の約束が書き記され、「わたしを知るようになる」(エレミヤ31:34)とあるとおり、神様を知るようになり、神様と親しくされていきます。イエス様を信じると、それ以前よりも神様のことがわかるようになり、「神様」とか「天のお父様」と親しく呼べるようになるのは、この約束がその人に実現しているからなのです。
Ⅲ.むすび
私の父が3/23(水)に満90歳で急に召され、一昨日4/1(金)に埼玉県所沢市で葬儀が終わりました。父は近年、家の隣りの日本フリーメソジスト所沢グレース教会の溝木牧師に、洗礼の準備クラスをしていただいていました。50年ほど前に洗礼を受けた母と一緒に、先月も『聖書』のザアカイさんの話(ルカ19章)を聞いたそうです。本人はまさか、こんなに急に召されるとは思っていなかったでしょう。予定はまだ決まっていませんでしたが、私は父の洗礼式に立ち会いたかった。そして、父と一緒に聖餐を受けたかったと思います。十字架の上でイエス様は、となりで同じ刑を受けている強盗が「イエス様、あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」と言った時、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言われました(ルカ23:42~43)。「洗礼を受ける間がなかった点では共通しているこの人と父はイエス様のみもとで会っているかなあ、強盗と元銀行員であった父はどんな会話をするのかなあ」と思いを巡らしています。それにしても、受けられるならば、受けられる時に洗礼を受けましょう。洗礼を受けているならば、オンラインで礼拝している方も、機会をとらえて教会で受けられる時に、聖餐を共に受けましょう。
これがイエスさまにとって最後の過ぎ越しの食事であることは、29節でイエスさまが言われたことにもあらわれています。しかし、同時に、この日の過ぎ越しの食事は、聖餐の始まりとなりました。それは、神の国が完成するその日まで続けられるのです。「わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日」とは、「神の国」が完成する日、イエスさまが再び来られる日のことです。そのあと彼らはどうしたか?「彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた」(30節)。「神の国」でイエス様と喜びの食事を共にする日を待ち望みつつ、聖餐をともに受け、讃美の歌を歌いつつ、イエス様といっしょに今週のそれぞれの場に遣わされましょう。
(記:牧師 小暮智久)