2026年3月8日 礼拝説教 「何を選ぶか」

聖書: ルカの福音書 10章38~42節

Ⅰ.はじめに

 先週3月5日(木)は日本の暦(二十四節気)では「啓蟄(けいちつ)」でした。啓蟄とは、大地があたたまり、冬眠していた虫たちが外に出てくるころという意味です。三寒四温と言いますが、春が待ち遠しいなあと思います。

 この教会の礼拝では2017年5月より「ルカの福音書」から少しずつ続けてお聴きしており、今日は先週の続きの箇所です。短い箇所ですが、印象的で目に浮かぶようです。

Ⅱ.みことば

1.イエス様の招き(ルカの福音書 10章38~40節)

 「さて、一行が進んで行くうちに」(38節)とあります。「一行」とは、イエス様と12人の弟子たちです。イエス様はある村を訪れます。すると、マルタという女性がイエス様一行を家に迎え入れたのでした。今もイエス様は、私たちひとりひとりを訪れてくださいます。そして、イエス様を救い主として迎え入れた人は、罪と滅びから救われ、神様の子どもとされます。イエス様を迎え入れた人を、イエス様はさらにご自分のことばを聞くように、ご自分のもとへお招きになります。当時、ラビと呼ばれた「律法の教師」の足元に座って教えを聞けるのは男性に限られていました。しかし、イエス様は女性のマルタも姉妹のマリアも、ご自分の足元にお招きになったのです。

 このエピソードは、マルタとマリアとを比べて、どっちがよくてどっちが悪いと言っているのではないと思います。イエス様はマルタもマリアも同じように大切にされました。このとき、イエス様がマルタの家に来られたのは突然ではなかっただろうと思います。マルタもマリアも一緒にイエス様御一行を迎える準備を忙しくしていたことでしょう。そこへイエス様たちが到着される。まずイエス様はご自分のもとにマルタとマリアの二人を招かれる。マリアは、マルタと一緒にもてなしの準備をしていましたが、イエス様が招いてくださったのでその足元に座ることを選びます。39節をお読みします。一方、マルタも、イエス様のもとに招かれますが、やはりもてなしのことが気になり、その準備を続ける方を選びます。40節をお読みします。自分で直接マリアに言えばよいのに、自分の不満やいらだちをイエス様にぶつけてしまう。マルタにとってイエス様は、自分の本音をこれだけ率直に言える間柄だったのだなあとも思います。その中心点は「私だけに」ということでしょう。「文語訳」の『聖書』はここを「われを一人のこして」と訳しています。イエス様が来られるまではマリアも一緒にもてなしの準備をしていたことを示す表現です。原語のギリシア語もこれを示唆しています。つまり、イエス様が来られるまでは二人とももてなしの準備に忙しくしていた。イエス様が来られて二人を足元に招いてくださった。マリアはそこに座り、マルタは座らなかったということでしょう。

 私たちがイエス様を受け入れたあと、イエス様はその時その時、ご自分のもとに座り、落ち着いて、みことばを聞くようにとお招きになります。あなたはどうしますか?

2.良いほうを選ぶために(ルカの福音書 10章41~42節)

 この短いエピソードの中で、イエス様のみことばとして記されているのは、マルタに対することばだけです。41節をお読みします。イエス様は、マルタの名前を2回呼ばれます。そこにはマルタに対する特別な思いが込められていたのではないでしょうか。イエス様は私たちの名前をも親しく呼んでくださいます。

 「あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています」とイエス様はマルタに言われました。このときのマルタの心のうちを、だれよりもわかってくださっていたのはイエス様です。マルタはこのとき、思い煩い、心がいろいろなことに分かれてしまって、混乱しているような状態にありました。その動機はまちがいなく善意です。イエス様に喜んでいただきたいという善意です。その「自分の善意」が、「イエス様の実際の心」よりも上になってしまった。「イエス様が実際に何を喜ばれるか」よりも「こうすればイエス様は喜ばれるだろう」という自分よがりの善意を優先したということではないでしょうか。その結果は思い煩いでした。

 置かれていた状況は、マリアも同じでした。マリアも、マルタと同じようになる可能性があったのではないでしょうか。イエス様は続けてこう言われます。42節をお読みします。

「必要なことは一つだけ」「マリアはその良いほうを選びました」。マリアはなぜ、良いほうを選べたのか。性格的な違いがその理由だと考える人もいるかもしれません。マリアは静かで熟慮するタイプ、マルタは活動的な性格のようにも思えますが、私は必ずしもそうではないと思います。私たちはお互いに性格が異なっており、それぞれに強さと弱さがありますが、性格に良い悪いはありません。イエス様が言われる「良いほう」を選べるのは、こういう性格の人だと決まっているわけでは決してありません。
 では、イエス様が言われる「良いほう」を選ぶためには、どうしたらよいのでしょうか?
 私たちがイエス様を救い主として迎え入れたあとで、「自分はイエス様のために何をしたいか」ではなく、「イエス様が自分に願っていることは何か」を優先することではないでしょうか。

 ふだんの私たちはどうでしょうか?マルタのようになってしまうのが現実かもしれません。このときのマルタを実例として示す『聖書』はリアルで現実的だと思います。あろうことか、マルタはイエス様にいらだちや不満をぶつけてしまう。イエス様との関係は、決して建前の、表面的なものではなく、本音の、率直な関係でよいのだと示しているのではないでしょうか。私たちの持っていき場のない感情を、イエス様になら持っていくことができ、聞いてもらえるのです。マルタは自分の不満を、弟子のだれかではなく、イエス様にぶつけた。私たちも、お祈りの中でそうすることが許されているのではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 日本で、世界で、日常の生活で、さまざまなことが起こり、先行きが見えず、心が落ち着かないような中で、私たちは何を優先するか、選択を迫られています。「必要なことは一つだけ」と言われるイエス様の足元に座り、主のことばに聞き入る時を、一日の中でたとえ10分間でも選び取りましょう。

(記:牧師 小暮智久)