2026年3月1日 礼拝説教 「動機は愛」

聖書: ルカの福音書 10章25~37節

Ⅰ.はじめに

 最近、2人の方に「あなたを覚えて(心に留めて)いますよ」と言われ、うれしくなりました。ひとりは手紙で、ひとりは直接言ってくださいました。イエス様は私たちをいつも覚えていてくださり、心に留めていてくださいます。私たちは、イエス様を信じて神様の子どもとされ洗礼を受けた時に、神様の家族である教会の一員とされました。イエス様がこの教会のことを、この教会のこれからのことも、覚えていてくださることをうれしく思います。また、イエス様は、自分の考えにこだわって自分の正しさを主張するあまり、神様から遠くなってしまった人をも覚えて、心に留めていてくださいます。

 この教会の礼拝では2017年5月より「ルカの福音書」から少しずつ続けてお聴きしており、今日は先週の続きの箇所です。ここには、自分の正しさにこだわるあまり神様から離れてしまっていた人が登場します。

Ⅱ.みことば

1.永遠のいのちを受けるには(ルカの福音書 10章25~28節)

 25節をお読みします。「律法の専門家」とは「旧約聖書」にくわしい学者で、この人がイエス様をためそうとして質問しました。それは「何をしたら永遠のいのちを受けることができるか」という質問です。「永遠のいのち」とは、不老不死のような命ではなく、神様と自分とが絆で結ばれており、神様の愛に包まれた「神の国」に入れるいのち、「神の国」が自分のうちに始まっているいのちのことです。この人は「何をしたら」と質問しました。つまり、「自分の行ないによって永遠のいのちを受けられる」と考えており、「何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるか」と質問したのです。

 『聖書』はその全体で、何かよいことをしたら救われて「永遠のいのち」を受けられるとは言っていません。行ないによるのではなく、神様の恵みとキリスト(救い主)を信じることによって「永遠のいのち」が与えられると『聖書』は語っています。ということは「何をしたら」というこの人の問いそのものがまちがっていたことになります。けれども、イエス様はこの人と同じ目線で会話を続けてくださいました。ここにイエス様の愛があります。26節をお読みします。イエス様は、私たちに対しても、私たちの疑問がまちがっていても、無視したり上から見下したりするのではなく、同じ目線で関わってくださいます。

 この人はどう答えたか?27節をお読みします。これは「旧約聖書」の申命記6:5とレビ記19:18のことばで、「旧約聖書」の最も重要な戒めです。しかも、これは自分の力ではできず、救い主を信じ永遠の命を与えられた人ができることです。イエス様はこう言われました。28節をお読みします。神様を愛することと隣り人を愛することを実行しなさい、と言われたのは、正しいことは知っていても、実際には行なえないことを、この人に気づかせるためだったのではないでしょうか。この人は「自分が正しいことを示そうとして」、「私の隣人とはだれですか」(29節)と質問します。「自分が正しいこと」とは当時、隣り人といえば自分と同じユダヤ人に限ると考えられていたので、イエス様も同じように言われるだろう、自分の正しさを認めてくださるだろうと、このように質問したのでした。私たちは、自分の正しさにこだわるのでしょうか。それともイエス様にお聴きするのでしょうか。

2.となりびとを愛するには(ルカの福音書 10章29~37節)

 イエス様は、ひとつのたとえ話で、彼の質問にお答えになりました。「ある人」(30節)とはおそらく律法学者と同じユダヤ人でしょう。この人がエルサレムの町からエリコという所へ下って行く。標高差約1000mを27kmの距離で下って行くとても険しい道でした。そこで強盗に襲われる。当時、実際に強盗が岩陰などに隠れていて旅人を襲ったことがあったそうです。この人は持ち物を取られ、殴られ、半殺しにされて倒れていました(30節)。

 そこへ一人の祭司が通りかかります。祭司は、倒れている人は死んでいるかもしれないと思ったのでしょう。「旧約聖書」で死体に触れることは祭司には禁じられていました(レビ21:11)。祭司は倒れている人の反対側を通り過ぎて行きます(31節)。

 次にレビ人がそこを通りかかります。レビ人とは、「旧約聖書」に登場するヤコブという人の12人の息子の一人レビの子孫で、やはり神殿で神様に仕える人でした。この人もさきほどの祭司と同じ理由で、倒れている人の反対側を通り過ぎて行ったのです(32節)。

 3番目に通りかかったのはサマリア人です。サマリア人とユダヤ人は互いに敵対していました。しかし、このサマリア人は倒れているユダヤ人を見てかわいそうに思い(33節)、応急処置をし、宿屋に連れて行って介抱したのです(34節)。しかも、翌日宿屋の主人にこう言います。35節をお読みします。デナリ2枚とは当時の2日分の給料。今で言えば2万円ぐらいでしょうか。当時イタリアでは1デナリが約1か月分の宿泊料に相当したそうで、パレスチナの宿泊料の相場が同じなら、このサマリア人は約2か月分の宿代を主人に渡したことになります(レオン・モリス著,『ティンデル聖書注解 ルカの福音書』,p.249)。

 イエス様は、このたとえ話の結論で律法学者にこうお尋ねになります。36節をお読みします。イエス様は「隣り人とはだれか」という律法学者の質問に対して、「だれが隣り人になったか」と質問されたのでした。律法学者はこう答えます。37節をお読みします。「同じようにしなさい」と言われても、生まれながらの私たちは、自分の力で、自分の愛を動機として、だれかの隣り人になれないのではないでしょうか。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(27節)という律法を、私たちは行なうことができない。律法を実行しないという罪を犯してしまう。律法は私たちに、愛することができないという罪を示し、その罪からの救い主が必要であることを示すのです(ローマ3:20、ガラテヤ3:19,24)。

Ⅲ.むすび

 私たちがだれかの隣り人になる。その動機は愛です。真実の愛は、神様から与えられます(Iヨハネ4:7)。心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして神様を愛することも、隣り人を自分自身のように愛することも、生まれながらの私たちの性質や努力ではできません。イエス様を救い主と信じて永遠のいのちを与えられ、神様と結び合わされた人が、神様からの愛を与えられて、神様と隣り人を、すべてを尽くして心から愛することができるのです。 聖餐を受けることで神様に養われ、今週、私たちの行ないのすべての動機となる神様からの愛を増し加えられて過ごそうではありませんか。

(記:牧師 小暮智久)