2026年2月15日 礼拝説教 「何を喜ぶか」
聖書: ルカの福音書 10章17~24節
Ⅰ.はじめに
私たちは日頃、何を喜ぶでしょうか?思い通りになったこと、あるいは、何かができたことでしょうか。今、ミラノ・コルティナ オリンピックが開かれており、毎日のように報じられています。メダルをとった人たちの喜び、それはこれまでの懸命な努力が報われた喜びでしょうし、夢を実現した喜びでしょう。たしかにそれは喜びであるに違いありません。いつまでも色あせない喜び、だれもが持ち得る喜びとは何でしょうか?
この教会の礼拝では2017年5月より「ルカの福音書」から少しずつ続けてお聴きしております。今日は、先週のつづきの箇所に耳を傾けましょう。
Ⅱ.みことば
1.72人の喜び(ルカの福音書 10章17~20節)
イエス様によって二人ずつつかわされ、病人をいやし、「神の国があなたがたの近くに来ている」と人々に伝えた72人は喜んで帰って来ました(17節)。そして、イエス様に報告します。彼らの喜びとは何だったのか?17節をお読みします。彼らが喜んだのは、イエス様の御名(権威とか力)を用いると、悪霊どもでさえ自分たちに服従したことでした。彼らが喜んだのは、イエス様によって力あるわざを行なえたことだったのです。
彼らのこのことばを聞いて、イエス様はどう言われたでしょうか?18~20節をお読みします。イエス様はつかわされた72人がしてきたことを否定しませんでした。彼らの働きによって「サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしは見た」と言われました(18節)。それは、イザヤ書14:12~15に書かれているような光景です。72人がしてきたことは、単に病人をいやし、神の国を宣べ伝えるということだけでなく、悪霊との戦いであり、イエス様の御名によって悪霊に勝利したということだったのです。イエス様は悪霊を「蛇やサソリ」にたとえ、それに打ち勝つ権威を72人に授けたのだと言われました(19節)。
しかし、それだけではありません。イエス様は別の喜びを指し示されました。20節をお読みします。自分に何かができたという喜びではなく、自分の名前が天に書き記されているという喜びです。自分の名前が天に書き記されているとは、イエス様を救い主と信じることによって、自分が神の国の国民として登録され、天の国籍(ピリピ3:20)を与えられ、どんな状態であっても自分の存在が神様に常に受け入れられているということです。
何かができたこと、何かを達成したこと、願い通りになったことは確かに喜びですが、私たちはそれ以上に、自分が神の国の国民とされ、天に自分の名前が書き記されていることをこそ、喜ぼうではありませんか。
2.イエス様の喜び(ルカの福音書 10章21~24節)
21~22節はイエス様のお祈りです。意味がとても深いお祈りだと思います。イエス様は聖霊によって喜びにあふれてこう祈られたのです。21~22節をお読みします。イエス様の喜びとは、父なる神様との特別な関係だったのです。
お祈りには、まず呼びかけがあります。イエス様は「天地の主であられる父よ」と呼びかけられました。私たちもお祈りのはじめに「神様」とか「天のお父様」などと呼びかけます。呼びかけは、だれに祈っているかをあらわすものですから、とても大切です。
次に、神様への讃美のことばがあります。イエス様は「あなたをほめたたえます」と神様を讃美しました。呼びかけの次に「御名を讃美します」など、神様を讃美しましょう。
そして、お祈りの内容に入ります。感謝や願い、問いかけなど、お祈りの内容は自由であってよいのです。このときのイエス様は、父なる神様のお心を受け止め、確認するお祈りをされました。父なる神様のお心とは、「これらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました」というお心です。「これらのこと」とは、「神の国」の到来と「救い主」が来られたことでしょう。「神の国」や「救い主」は、「知恵ある者や賢い者」すなわち、「自分は正しい」、「自分はわかっている」と自分を誇る人には隠されて受け入れることができず(たとえば、当時の律法学者やパリサイ人)、「幼子」と言われている自分の無知、無力を認める人に現されるというのが、神様のみこころなのです(Iコリント1:26~29)。22節はむずかしいですね。「すべてのこと」、特に父のみこころを現わし行なうことは、「わたしの父からわたしに渡されています」とイエス様は祈られました。そして、「子がだれであるか」、つまり御子イエス様がどんなお方かは父なる神しか知らず、「父がだれであるか」、つまり父なる神様がどんなお方であるかは、御子イエス様と、イエス様が父なる神様を現そうと心に定めた人のほかは誰も知らないと祈られたのです。これはどういう意味でしょうか?イエス様が前もって定めた人しか、父なる神様を知ることができないということでしょうか。そうではありません。そのような予定論が言われているのではありません。ここで言われていることは、私たちの知恵や努力では神様を知ることはできず、神様がご自身を現わし啓示してくださるときに、私たちは神様を知ることができるという意味であり、すべての人を神様はご自分のもとに招いておられますが、その招きに応じた人だけが神様の助けによって神様を知ることができるという意味ではないでしょうか。今、あなたが神様を知っているとすれば、それはイエス様が現してくださったのです。
イエス様のお祈りは22節までで、次にイエス様は弟子たちだけにこう言われました。23~24節をお読みします。「あなたがたが見ているものを見る目は幸いです」(23節)とイエス様は言われました。私たちが、神様に示されて見ているものとは何でしょうか?それは「神の国」と「救い主イエス様」です。「神の国」、神様が愛と恵みをもって包んでくださる国、それが自分の生活の中に始まっている人は幸いだとイエス様は言われました。それがどれほど幸いかということが、24節で言われています。「旧約聖書」の預言者たちや王たちが見たいと願ったのに見られなかった「神の国」「救い主イエス様」を私たちは見ており、彼らが聞きたいと願ったのに聞けなかった「神の国の福音」を私たちは今聞いている。「旧約聖書」の人々から見て、うらやましいと思われるほど、私たちは幸いなのです。
Ⅲ.むすび
私たちは何を喜ぶのか?教団の今の主題聖句は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい」(Iテサロニケ5:16~18)です。いつも喜ぶ。これはむずかしいのではないでしょうか。悲しみの日に、落胆の日に、私たちは喜べるでしょうか。何を喜ぶのか、が大切です。年をとるにつれ、自分にできることがだんだん少なくなっていく。そんな現実の中で、何を喜ぶことができるのでしょうか。 それは、自分の名前が天に書き記されていること、また、イエス様にとっての喜びが父なる神様との親しい関係であったのと同じように、私たちも神様を仰げることこそが、いつもどんなときでも喜び得る喜びではないでしょうか。
(記:牧師 小暮智久)

