2026年2月1日 礼拝説教 「神の子どもの歩み」
聖書: ルカによる福音書 4章1~13節
Ⅰ.はじめに
先週のイエス様が洗礼を受けられた場面の次の場面を、ルカの福音書からお聞きしましょう。今から約2000年前の西アジアでイエスというお方は「あなたはわたしの愛する子」(3:22)と天からの声を聞き、神の御子として働きを始められました。神の子として世界に救いをもたらすためには、神様のご計画とは異なる道や誘惑がありました。イエス様はどのようにその道を選ばれたのでしょうか。それは、イエス様を信じることによって神の子どもとされた今の私たちとどんな関係があるのでしょうか。
Ⅱ.みことば
1.石をパンに(ルカの福音書 4章1~4節)
「さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ」(1節)と、悪魔の試みを受けられた背景が記されています。イエス様が救い主として働きを始める際、悪魔の試みを受けられたのは、神様の計画によることだったのです。40日間、何も食べず、空腹を覚えられたイエス様にまず悪魔が試みたのは、荒野にたくさんころがっていて、日に焼けている「この石に、パンになるように命じなさい」(3節)という試みで、そのような方法で「あなたが神の子であること」を証明しなさいという誘惑でした。
これは、「人々に必要な物を満たすという方法で、『神の国』を実現せよ」という誘惑です。「あなたが『人々の生活を豊かにするという種類の救い主』になれば、この世は天国になるよ」という誘いです。言わば、理想的な社会をもたらす政治家のような救い主でしょうか。私たちにとっても、たとえば「教会がもっと政治や経済の力を持っていて、人々の生活を豊かにできれば、伝道は進むのではないか」という誘惑に似ているように思えます。
イエス様は、このテストにどうお答えになったか。4節を見ましょう。これは申命記8:3のみことばです。「人はパンだけで生きるのではなく、」(その先が非常に大切ですね)「人は主の御口から出るすべてのことばで生きる」(申命記8:3)。私たちも心に刻みましょう。
2.私の前にひれ伏すなら(ルカの福音書 4章5~8節)
悪魔の試みの順序が「ルカの福音書」と「マタイの福音書」で2番目と3番目が違います。学者の説明に満足のいくものはないようです。ただ、印刷機の発明前、『聖書』を書き写していた時代に順序の違いは既に気づかれていたはずです。その時に体裁を整えず、順序をそのままにした所に書き写した人々の正確さ、『聖書』そのものの誠実さが垣間見られます。
イエス様はこの時、高い所で「一瞬のうちに世界のすべての国々を見せ」(5節)られ、「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう」(6節)と悪魔に言われます。これは、単にイエス様の権力欲を刺激した誘惑ではないようです。「イエスよ、あなたが世界の王になれば、人々に福祉をもたらす王国はすぐにできるよ」という誘惑でした。ただし、ただ一つの交換条件がありました。「もしあなたが私の前にひれ伏すなら」(7節)です。
この誘惑は私たちが思う以上に、イエス様にとっては魅力的で、合理的だったのではないでしょうか。しかし、イエス様が天の父から与えられた使命を果たすことで実現する「王国」は、悪魔が提示した「王国」とは違いました。それは、人々が神様から離れてしまったという罪と、その結末である滅びという大問題の解決なしには成立しない「王国」であり、救い主の十字架での死と復活なしには成し遂げられない「王国」だったのです。イエス様は、その天の父のご計画の実現のために来られたのであって、「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」(8節,申命記6:13)とのみことばでこの誘惑を退けました。それは、イエス様が実現される「王国」が「神が主として礼拝される王国」だったからです。「神の国」はイエス様が私たちを支配するのではなく仕えることにより、命を与えることで実現します。それと同じように、教会の伝道の働きもまた、人々を納得させ支配するのではなく、「効率的に」というよりは、人々に仕えることで進められるのです。
3.目立つことをすれば(ルカの福音書 4章9~13節)
次にイエス様はエルサレムの神殿の屋根の端に立たされていました。「あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい」(9節)と悪魔は試み、『聖書』の詩篇91:11,12を引き合いに出します。「人々が驚くような目立つことをして、『聖書の言葉は本当だ。自分は神に愛されている救い主だ』と証明すれば、人々はあなたに注目して、信じるはずだよ」。これは、今の私たちにも、やはり誘惑ではないでしょうか。「教会が人々の目を引く目立つことをすれば、伝道は一気に進むのではないか」という考え方とも似ているかもしれません。
しかも、悪魔は『聖書』をよく知っていて、『聖書』で私たちを誘惑することがあります。「旧統一協会」(「世界平和統一家庭連合」)や「ものみの塔(エホバの証人)」など、キリスト教によく似て非なる団体は、『聖書』を使って『聖書』を否定し、『聖書』を使ってキリストを否定します。それは、『聖書』の一部だけを取り出して、自分たちの教えに合せて解釈を曲げるからです。悪魔は確かに、詩篇91篇という『聖書』の一部を使いましたが、「だから、飛び降りて見よ」という勝手な解釈と適用を付け加えたのです。
イエス様はどう答えられたか。12節を見ましょう。これは申命記6:16の引用です。
Ⅲ.むすび
イエス様にとって「荒野での誘惑」とは何だったのか。ヘンリ・ナウエンは「『あなたはわたしの愛する子』と言われた父の御声から遠ざけようとする誘いだった」と言います。悪魔は「あなたは、石をパンに変え、人々をひざまずかせ、神殿から飛び降りることで、神の子であると証明せよ」とイエス様を試みたのでした。しかし、イエス様は悪魔に「わたしはすでに神に愛されている子どもです」と答え、父の御声に聴き続け、人を操作することから自由な人生を歩みました(『いま、ここに生きる』,p.204~205)。イエス様を受け入れた私たちも神の子どもとして、「あなたはわたしの愛する子」と言われる父の御声に聞き続けて歩むように、また、御子キリストのからだと言われる教会をかたちづくる一員として、教会員お互いの交わりの中で歩むように、召されています。
(記:牧師 小暮智久)

