2025年1月18日 礼拝説教 「まっすぐにせよ」

聖書: ルカの福音書3章1節〜18節

Ⅰ.はじめに

 新しい年を迎えて3週間あまり、どのような毎日をお過ごしでしょうか。
 アドベント、クリスマスにはイエスさまの誕生について聖書から学んできました。先週は貴重なイエスさまの子ども時代の出来事についてルカの福音書2章の後半からのメッセージでした。今日はその続き、バプテスマのヨハネについてご一緒にみことばから学びたいと願っています。

 新約聖書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4つの福音書があり、同じことについて書かれている記事もあれば、その福音書にしか書かれていないこと、ということもあります。マタイはユダヤ人に向けて(ユダヤ人が読むことを想定して)マタイの福音書を書いたと言われていますが、このルカの福音書は、1章の初めにあるように、テオフィロという人にあててルカがこの福音書と使徒の働きを書いています。ルカの中にあったのは、ユダヤ人ではない人、ユダヤ的な背景を持たない人々にイエスさまのことを知ってほしい、この天地万物をお造りになったまことの神さまを知ってほしい、という思いでこれらの書を順序立ててわかりやすいように書き記した、ということです。

 どの福音書も、イエスさまの誕生の出来事の後、イエスさまが公生涯、具体的に活動を始められる前にバプテスマのヨハネの働きを紹介しています。この4つの福音書に共通していることは、バプテスマのヨハネが旧約聖書に預言された救い主の前に登場する預言者である、ということです。

Ⅱ.みことば

 聖書に同じ名前の人はたくさん出てきますが、福音書を書いたヨハネとは別の人物です。それでこの人のことを「バプテスマのヨハネ」と呼ぶわけです。
 ルカ1章に詳しく出てきますが、ヨハネはザカリヤとエリサベツの間に生まれた子どもです。年をとってもう子どもが与えられることはないだろうと諦めていたところに、神殿で仕える祭司職であったザカリヤは主の使いから「男の子が生まれる」と告げられます。その子がバプテスマのヨハネですが、どのような働きをするのか、ということについて1:13節を見てください。

 「御使いは彼に言った。『恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネと付けなさい。その子はあなたにとって、溢れるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します」1:13-17

 イエスの母マリアもまた御使いから信じられないようなみ告げ受けた時に、「親戚であるエリサベツも不妊と言われていたのに妊娠6ヶ月になっている」と言われ、その後3ヶ月ほどエリサベツのところで一緒にいたとルカ1章後半に書かれていますので、イエスさまとバプテスマのヨハネもまた親戚だったということになります。

 バプテスマのヨハネが登場した頃、人々は神さまのメッセージに飢え渇いていました。旧約聖書最後のマラキという人から約400年間、1人も預言者が起こされなかったからです。預言者は神さまのことばを預かってそれを人々に伝える、ですから当時の人々は神さまからの語りかけ、おことばを400年間全く聞くことがなかったわけです。このバプテスマのヨハネは一体何を語ったのか、何をしたのでしょうか。

 3:3「ヨハネはヨルダン川周辺の全ての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた」

 悔い改めのバプテスマを呼びかけた、というのです。そして4節からのみことば、これは旧約聖書イザヤ書40章の引用になるのですが、

 「荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。こうして、すべての者が神の救いを見る」4-6節

 後から来られる救い主イエスさまを迎え入れやすいように人々の心を整える、その荒野で叫ぶ声がバプテスマのヨハネだというのです。
 400年の暗黒時代、預言者が全く起こされなかった時代を経て、神さまからのメッセージに飢え渇いていた人々は、彼からバプテスマを受けようとして大勢集まってきました。その群衆に向かって彼は非常に厳しいことを何の忖度もなしに語ります。

 3:7−9「まむしの子孫たち。誰が迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。われわれの父はアブラハムだという考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます」

 当時のユダヤ人は、われわれはアブラハムの子孫、神の選びの民なのだから、何をしても許されるのだ、と考えていたようです。バプテスマのヨハネはそこを厳しく戒めて、「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と語ります。実を結ばない木を切り倒すために斧が用意されているけれどもまだ切り倒されてはいない、今が悔い改める時、方向転換する時なのだ、と勧めたのです。群衆に対して、取税人に対して、兵士に対して、自分はどうしたら良いのかとバプテスマのヨハネに求めた人々に、神さまに立ち返ること、悔い改めにふさわしい実を結ぶ生き方をするようにと告げると同時に、救い主イエスさまを指し示したのです。

 もしかして、このバプテスマのヨハネがキリストなのではないか、と考える人たちにはこのように言いました。

 3:16-17「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなた方にバプテスマを授けられます。また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめ、麦を集めて倉に納められます。そして、殻を消えない火で焼き尽くされます」

 これはもちろんイエスさまのことを言っているわけですが、当時は弟子として指導を受ける者は、教えを受ける代わりに先生の身の回りのお世話をしたようです。けれども「履き物のひもを解く」ことだけは奴隷の仕事として決して行わなかった。バプテスマのヨハネは、自分はキリストの弟子どころか、奴隷になるにも値しない、そんな資格もないほどに尊いお方なのだ、私ではない、キリストに従って生きるのだ、とあくまでも自分のバプテスマが救い主の到来への備えであることを語りました。

 ヨハネが授けていた水のバプテスマは、神に背を向けていた人が、悔い改めて神さまの方に向きを変えること、そのしるしとしてヨルダン川の水に浸されました。けれどもそれはあくまでも道備え、イエスさまは聖霊と火でバプテスマを授けられる。悔い改めにふさわしい実を結ぶ生き方を、私たちは自分の力や努力で完璧に行うことはできないけれど、神さまにつながっているなら、実を結ばせていただくことができます。聖霊の助けによって、十分に聖霊に満たされることによって新しい命を与えられ、常に共にいてくださり、新しい生き方に導いてくださる聖霊に浸されるのです。

 バプテスマのヨハネは人々を神の救いの御計画の原点に導きました。この働きがなかったとしたら、当時の民衆がナザレの大工の息子の声に耳を傾けることなどあり得なかったかもしれません。そして私たちにとっての最大の使命もまた、自分のことではなく、イエスさまを指し示すことです。

Ⅲ.むすび

 先日テレビで「好きな戦国武将ベスト20」という番組を見るともなく見ておりました。
 1位は織田信長。彼がたてた安土城(滋賀県)が紹介されていました。安土城の特徴の一つとして挙げられていたのが、普通お城は敵から簡単に攻め込まれないように、お堀を回らしたり、曲がりくねった道であったり、すっとお城には入れないような作りになっていることが多いように思いますが、この安土城は、真っ直ぐな道がお城の入り口まで続いていたそうです。信長は天皇をこの城に迎えることを想定してこのようにしたのではないか、と言われていました。当時、天皇が武将の元を訪れるということはなかったようで、実現はしなかったようですけれども、天皇を迎えるためには道を通常よりも広く、まっすぐにした、偉い人を迎えるために余計なものをどけて、できるだけ平らに道をまっすぐにした、というのです。

 私たちは今、バプテスマのヨハネが叫んでいた悔い改めのバプテスマをヨハネから受ける必要はありません。私たちはイエスさまがご自分の弟子たちに命じられた、「父と子と聖霊の御名によって」イエスさまを私たちの罪をあがなってくださった救い主と信じて生きると決めて洗礼を受けました。その私たちは、洗礼を受けたのだからもう大丈夫だ、という思いはないでしょうか。もちろん、救いということに関してはイエスさまを救い主と信じる、というそのことだけで十分ですが、「悔い改めの実を結ぶ者」とされているでしょうか。私たちも、神さまのみことばに、神さまがなさろうとすることに対して、心をまっすぐに開かれている必要はあるのではないでしょうか。

 新年聖会で講師の蔦田先生は「お祈りとは、手を組んで目を閉じて首を垂れる、その姿勢のことではなくて心を神さまに向けること、神さまに対して心をオープンにしていること」とおっしゃいました。

 「主の通られる道をまっすぐにせよ」(3:4)

 主の前に道を備える、心をまっすぐにする、というのは、あなたにとっては具体的にはどういうことでしょうか。ぜひ今週、そのことについて思い巡らしていただきたいと思います。

 自分にとっては決してうれしくはない、受け入れ難い出来事が、実は主のみこころが実現されるために、道備えとなる出来事、私たちの心が整えられるための出来事であるかもしれません。

 余計なものを取り除けて、凸凹もできるだけ平らに私たちの心にまっすぐ主のみことばが届くように、また主のみこころ、主がなさろうとされることを私たちが素直にそのまままっすぐ受け止めることができるように、そのような心に主によって整えていただき、そのような者として歩ませていただきましょう。

(記:信徒伝道者 小暮敬子)