2026年1月11日 礼拝説教 「少年イエスと私たち」
聖書: ルカの福音書 2章39~52節
Ⅰ.はじめに
イエス様は幼い時から少年時代をどのようにすごされたのでしょうか。それは、今の私たちとどのような関係があるのでしょうか。
Ⅱ.みことば
1.イエス様の幼い時(ルカの福音書 2章39~40節)
イエス様の幼い時の記録は、『聖書』の中にそれほど多くはありません。約2026年前に生まれた夜の出来事(2:1~20)、8日後の名づけの時(2:21)、生後40日後の出来事(2:22~38)、そして今日お聴きした場面が「ルカによる福音書」ではそのすべてです。西アジアのその土地では「旧約聖書」が大切にされていました。イエス様の両親は「旧約聖書」に従って40日間の「きよめの期間」を過ごしました。それからエルサレムの神殿で幼な子のイエス様をささげ、犠牲にはとを2羽ささげたのも「旧約聖書」の教えによることでした。その後、両親はどうしたか。39節を見ましょう。「両親は、主の律法にしたがってすべてのことを成し遂げたので」とあります。「主の律法」とは、「旧約聖書」の特にモーセという人を通して神様から私たちに授けられた言葉のことです。それに従いひと区切りついた両親はナザレという町に帰りました。
イエス様が幼い時を過ごしたのはこのナザレという町です。あなたが生まれ育ったのはどんな所ですか。「幼い時、どこでどのように過ごしたか」は今の自分に影響を与えているかもしれません。ナザレの場所を1階の地図で確かめることができます。ナザレは東にガリラヤ湖、西に地中海がある標高400mほどの丘陵地帯で、緑の豊かな所だったようです。イエス様はこのナザレで、私たちが成長するように「成長し、知恵に満ちてたくましく」(40節)なっていきました。「神の恵みがその上にあった」(40節)。イエス様を知る前の私たちにも神様の恵みはありました。「先行する神様の恵み」と言います。近くに教会があった。家に聖書があった。学校がミッション系だったなどもその一つでしょうか。その時から、それ以前から、神様はあなたを導いておられました。今日ここに導いたのも神様です。
2.少年時代のエピソード(ルカの福音書 2章41~51節)
イエス様が12歳の時に何があったでしょうか。また、これは今の私たちにどんな意味をもつでしょうか。41節には「過越の祭」というその地方の祭に毎年エルサレムに行くイエス様の両親の姿が書かれています。この祭のことは「旧約聖書」の出エジプト記12章にあり、イスラエルの民を神様がエジプトから救い出された記念の祭でした。42節を読みましょう。イエスがこの祭に行ったのは毎年なのか、12歳の時だけなのか、ここだけではわかりませんが、12歳という年齢には大きな意味がありました。アジアのユダヤ地方では当時、13歳がユダヤ教の会堂の正式なメンバーになる、言わば成人式でした。その1年か、2年前にエルサレムに行くことは、少年から大人になるための大切な準備だったのです。
その時、何があったのか。言わば「少年の行方不明事件」です。なぜ、「祭の期間を過ごしてから帰路についた」(43節)ときに、イエスがいないのに誰も気づかなかったのか。イエスは何人兄弟でしょうか。マルコ6:3によるとイエスは少なくとも7人兄弟です。このときまでに弟や妹が何人生まれていたかわかりませんが、兄弟姉妹やいとこ、親戚や知人など大人数の旅行で、まさかエルサレムに残ったままとは思わなかったのでしょう。少年イエスはなぜこんなことをしたのでしょう。母マリアの問い(48節)は、私たちの問いでもあります。それに対するイエス様の答えも「どうして」で始まります。「どうして」と「どうして」のぶつかり合い。イエス様の反抗期でしょうか。それとも、何か意図や目的があっての、12歳という年齢での行動だったのでしょうか。
私の長女が幼い時、あるお店で姿が見えなくなり、必死に探して妻が見つけた時、娘は「お母さん、どこに行ってたの?」と言いました。今となれば笑い話になる思い出ですが、若い親は必死です。その時と、このイエス様のエピソードとは何が違うのでしょうか。「わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか」(49節)と、イエス様は「神様が住まわれる宮」を「自分の父の家」と呼び、神様を「父」と呼び、イエス様と神様との特別な関係を示そうとされたのは明らかでしょう。両親はこの言葉を理解できず、その後もイエス様はナザレで両親に仕えます。「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」(51節)。私たちにもイエス様が不可解に思える時があるかもしれません。それは、私たちがイエス様についての思い込みから解放されるチャンスです。イエス様が天の父の御子、創造主のひとり子であり、私たちのために十字架で死なれた救い主であり、3日目に復活し今も生きておられ、私たちと一緒に歩み、導こうとしているお方として見つめるチャンスです。
3.子どもから大人への成長(ルカの福音書 2章52節)
12歳以降のイエス様の成長の様子がここにあります。「知恵が増し加わり、背たけも伸びていった」という精神的、身体的な成長と、「神と人とにいつくしまれ」という社会的、霊的成長とも言える、関係における成長が書かれています。私たちは、「自分らしさ」を、どこで、誰との関係で身につけてきたのでしょうか。押さえつけられたり、反抗したり、がまんしたり、自分の好きなことを見つけたりなど、「子どもから大人へ」という時期に様々なことあり、それが今の自分につながっているのではないでしょうか。そのことが、今の自分の神様との関係や他の人との関係のとり方とつながっており、信仰のあり方の個性として現われます。
Ⅲ.むすび
イエス様は、私たちと同じように、幼い時から少年時代を過ごされました。このイエス様は、私たちが幼い時から少年少女時代をどのように過ごしたか、どんな経験をしたかをだれよりもご存じで、もしその時に受けた傷などがあれば、だれよりもそれをわかってくださり、それらをいやしてくださるお方です。 また、いまの日常の生活で、このときのマリアとイエス様のように、誰かを「どうして、こうなの?」と思い、相手からも「どうして、こうでないの?」と言われて、「どうして」と「どうして」がぶつかり合う時があるかもしれません。また、神様に対しても「どうして」と思い、神様からも「どうして」と問われるかもしれません。そのようなやりとりの中で、「自分」について新たに気づき、信仰においてさらに成熟した者へと変えられてまいりましょう。
(記:牧師 小暮智久)

