2025年12月28日 礼拝説教 「救い主に出会う」

聖書: ルカの福音書2章21節〜38

Ⅰ.はじめに

 2025年最後の日曜日を迎えました。先週はクリスマス礼拝、愛餐会・祝会と幸いな時をご一緒に過ごすことができて感謝でありました。今日共に礼拝をおささげして今度は木曜日に新年最初の元旦礼拝にまた共に集まることができることを感謝いたします。皆さま健康で、元気にまた木曜日、そして4日の日曜日にお会いできますようにと願っております。

 今朝開いております聖書のみことばは、まさに先週の続きのところです。クリスマスの登場人物、仮にページェントをするとしたら、何人くらいになるでしょう、たくさんの人たちが出てきます。マリヤとヨセフ、飼い葉桶の赤ちゃんのイエスさま、エリサベツ、大勢の天使たち、宿屋の主人、羊飼いたち、東からきた3人の博士たち、まだあるかもしれませんが、救い主の誕生を知らされたその知らされ方もそれぞれ違っていますし、ユダヤの人々が待ち望んでいた救い主であったはずなのに、全員が喜んで受け入れたわけでもありませんでした。ヘロデ王は厳密にはユダヤ人ではない、ユダヤの王でしたが、自分の立場が脅かされることを恐れてイエスさまを殺そうとしたため、ヨセフはマリヤと赤ちゃんのイエスを連れてエジプトへ逃げなければなりませんでした。天の軍勢が現れて羊飼いに救い主が誕生したことを知らせた場面もあれば、東の博士たちは星に導かれてイエスさまがおられるところにたどり着いたとマタイ2章に書かれています。

Ⅱ.みことば

 今日の聖書の箇所、ルカ2章の25節以下に出てくる、シメオンとアンナはどうだったでしょうか。私は、この2人が、なぜこの赤ちゃんが待ち望んでいた救い主だと分かったのか、ということはわかりません。不思議です。同じように、赤ちゃんを連れてエルサレムの神殿にささげものをしに来た人は他にもあったでしょうし、何も特別な人たちではなかったはずです。ところが、彼らにはこの方が約束された救い主だ、とわかったのです。

 イエスさまは「神」ですから、ユダヤの慣例の割礼を受ける必要もなければ、日本でいうところのお宮参りというか、ささげもののために神殿に行く必要はなかったかもしれませんが、人として通る全てのことをイエスさまも人として経験されたということが聖書に書かれています。神さまのみこころに従って生きるという見本を私たちに示されたということもできるかもしれません。

 さて、マリヤとヨセフが律法の定めに従ってささげものをするために神殿にきた時に、2人の人に出会いました。まずシメオン。この人がどのような人物であったか、ルカ2:25節からお読みいたします。
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。」

 シメオンの年齢ははっきりはわかりませんが、若者ではなかったでしょうし、少なくとも特別な人、例えば預言者だったというわけではなく、言ってみれば普通の信徒だったようです。ただ、聖書に書かれているように聖霊が彼の上におられ、イスラエルの慰められること、すなわちこれまで旧約聖書に預言されてきた救い主が来られることを待ち望み、生涯聖霊に導かれて歩んできた人でした。彼には、羊飼いのところに天使が現れたように、救い主がお生まれになったことは知らされてはいたわけではありません。けれども両親と共に神殿にやってきたその赤ちゃんがキリストであると聖霊によってわかったのです。偶然居合わせたのでしょうか?神さまのなさることに偶然はありません。彼は赤ちゃんのイエスさまを腕に抱き、聖霊が彼を導いて救い主に出逢わせてくださったことを心から喜びました。神さまの約束が確かに成就したこと、その喜びにあふれて神さまをほめたたえました。

 主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。29-32節

 実際にどのように私たちの救いが実現するのか、彼は見たわけではありません。けれども約束通りに救い主をこの世にお送りくださった神は、必ずそれを実現してくださると信じたのです。そして両親を祝福して、母マリアに語りかけます。
 「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

 生まれたばかりの赤ちゃんを前に、両親がもっと喜ぶことを言ってあげたらいいのに、という気もしますが、シメオンは最後まで神さまのご計画を語りました。これからのイエスさまのご生涯、実際イエスさまを裏切る人も、イエスさまの奇跡だけを求める人もいました。そして最後には十字架で死なれることになるわけです。マリヤがこれらをどう受け止めたかはわかりません。驚いたことでしょうけれども、おそらくは心のうちにとどめたことでしょう。

 もう1人、この時神殿でイエスさまに出会った女性がいました。「アンナ」という女預言者と書かれています。7年間の結婚生活の後夫に先立たれ、未亡人となりましたが、「宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた」(37節)人でした。
 彼女もどうしてわかったのかはわかりませんが、この赤ちゃんが救い主であるとわかってマリヤとヨセフのところへ近寄ってきて、「神さまに感謝をささげ、エルサレムの贖いを待ち望んでいた全ての人に、この幼子のことを語った」(38節)のでした。
 自分の心に留めておくのではなく、救い主がお生まれになったことを多くの人に語ったというのです。

 このアンナはアシェル族の出身とのことですが、私たち日本人は読み飛ばしてしまいそうですがこのアシェル族について少しお話ししたいと思います。旧約聖書の時代ですが、イスラエルには12部族がありました。サウル、ダビデ、ソロモンと3人の王が続いた後、国は2つに分断され、それぞれアッシリア、バビロンという大国によって捕囚が行われてしまいます。12のうち南ユダ王国の2つの部族だけが残り、北イスラエルの10部族はもはやどうなったかわからない、ユダヤ民族として残ることができず、異邦の民と結婚したり神の民であるというそのアイデンティーを失ってしまいました。詳しい経過は今日はお話しいたしませんが、シメオンは南ユダに属する部族ですが、アシェル族は神さまに逆らい続けた北イスラエルに属する小さな部族であり、その末裔であるアンナが預言者として神殿で神に仕え続けていたというのは本当に驚くべきことなのです。神に逆らい続ける民の中にありながら、エルサレムに帰ってきて真の神に仕えることを選んだ人々がいた、アンナもその子孫であった、ということです。

 北イスラエルは神の裁きとして滅んでしまいましたけれども、神さまにとっては北も南も関係なく、全ての人の光としてイエスさまが来られたことをまさにここで示されたのです。シメオンとアンナは偶然幼子イエスさまに出会ったのではないのです。神さまのその惠み、救いの日が来たことを喜び、神殿に来ていた人たちにこの喜び、救いを語ったのです。生まれて40日ですから、どう見ても普通の赤ちゃんにしか見えなかったでしょう。けれども神さまに祈り神さまに留まり続けていた彼女は、高齢になっていましたけれどもこの赤ちゃんこそ約束された救い主であると確信し、喜びに満ちて、もしかしたら周囲の人からは馬鹿にされたかもしれない、けれど彼女は恐れることなく大胆に語ったのです。

 2人がイエスさまに会っていたのは時間としてはそう長いことではなかったと思います。
私たちはシメオンでもアンナでもありません。けれども私たちもある時イエスさまと出会い、救いをいただきました。どのようにしてか、ということはそれぞれ違っていると思います。けれども確かにイエスさまと出会ったのです。アンナは正統なユダヤ民族の系譜からは外れた部族の人でしたが、救い主にお会いしました。シメオンは、預言する中で、32節で「異邦人を照らす啓示の光、万民の前に備えられた救い」と語っています。限られた人のためではない、全ての人の救い主としてイエスさまがお生まれになった、ということをこのシメオンとアンナははっきりと悟り、人々に語ったのです。
 新約聖書ガラテヤ3:28にはこのように書かれています。

 「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」
 イエスさまの救いは全ての人の救いです。シメオンもアンナも、その完成を見てはいなかったけれども幼子イエスさまにお会いし、確かな神さまのみわざを喜び迎えたのです。

Ⅲ.むすび

 主の再臨のとき、すべてが新たにされる救いの完成が約束されています。一方で、その「やがて」と「未だ」のはざまにあってうめいているのが私たちの今です。でも希望を持って自分のなすべき務めを全うさせていただきたいものです。

 イエスさまはすべての人の救い主。私たちもイエスさまにお会いしイエスさまによって変えていただきました。完全ではないけれど、神のかたちの回復の過程を今歩んでいます。インマヌエル、いつも共に歩んでくださると約束してくださっているイエスさま、新しい年もまず私自身がこのお方に信頼しつつ、イエスさまと共に歩む歩みをさせていただき、すべての人の救い主であるイエスさまを、人々に紹介させていただく者として整えられて参りましょう。

(記:信徒伝道者 小暮敬子)