2025年11月30日 礼拝説教 「神が人となられた!」

聖書: ピリピ人への手紙2:6-11

Ⅰ.はじめに

 今日から教会の暦ではアドベントに入ります。アドベントは日本語では待降節と言いますが、クリスマスまでの4週間、心を備えてイエスさまのお誕生の準備をする、思い巡らす期間を過ごします。最近ではいろいろなところでお菓子や紅茶や化粧品などまで、アドベントカレンダーとして販売されているのでちょっと驚いたのですけれども、アドベントの期間、ワクワクしながら1日に1つずつ開けていくわけですね。なにも毎年やらなくても、だってイエスさまはもうとっくにお生まれになったのだから、お誕生日そのものを祝うのはともかく、4週間前から何をするの?と思われるかもしれません。このアドベント期間は、今日のみことばにあるように、神であられた方が人としてこの地上に来られたということ、そして十字架で死なれた後復活して天に帰られましたが、再び来られるという約束が聖書に書かれています。再臨と言いますが、この2つのことについて特に心に留め、思い巡らす時として過ごすことになっています。

Ⅱ.みことば

 クリスマスは言うまでもなく、イエスさまがお生まれになった日であり、世界中でこの日が祝われているわけですが、イエスさまは御子なる神です。父なる神、御子なるキリスト、聖霊なる神、この三位一体は言葉で説明することは非常に難しいのですが、創造のはじめから今日に至るまで、神でなかった瞬間はありません。死んで神になったわけではなく、神であられる方が、その特権を地位を捨てて人間になられたのです。それも最も弱く小さい赤ちゃんとしてこの世に来られたのです。人間として、お母さんのお腹の中に宿り、生まれ、人として成長されました。人として経験する痛みも苦しみも、悲しみも病気も、全て経験されました。空腹を覚え、眠気や疲れを感じることももちろんありました。御子キリストは神でありながら人としてこの世に生まれ、神であり完全な人としてこの地上で生活され、御子キリストは神でありながら人として十字架の苦しみ、死を通られたのです。
 ピリピ人への手紙2:6−8にはこのように書かれています。
 「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分をむなしくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」

 もし神さまが自己満足のためというか、自分がいかにすごいか、ということを示したいだけであったら、片っ端から困った人を助け、あちこちで奇跡を起こし、すっと帰っていけばよかったと思うのですが、そうではなかった。イエスさまは、王宮に高貴な身分として生まれたのでもなく、貧しい若い夫婦のところに、しかも宿泊できる場所もなく暗い洞窟のような家畜小屋で生まれ、家畜の餌を入れる冷たい石の入れ物の中に寝かされたのが人生の最初の出来事です。いったいなぜ、なんのために神であった方が、人として、ここまで自分を低くしてこの地上に来てくださったのでしょうか。

 神が神であることを捨ててでも成し遂げようとされた神さまの最優先事項、それは、この私に、あなたに、神さまご自身のいのちを与えることだったのではないでしょうか。

 聖書の1番最初の書物、創世記1:27には、神さまはご自身のかたち、神のかたちとして人を創造された、と書かれています。
 ところが私たちはその「神のかたち」が壊れてしまっている、神さまとの関係も壊れてしまった罪の状態にあります。創造主なる神を知らず、神とは関係なく生きようとしている私たちが、神との関係を回復されて、永遠のいのち、神さまとつながっていることができるいのちをいただいて、成熟していくことができるように、私たちを罪の状態の中から救ってくださるためにイエスさまは来てくださったのです。私たちが本来あるべき姿、神さまが意図して私たちをお造りくださったその姿へと成長、成熟していくこと、神さまとつながる中でそのような歩みをすることを神は願っておられるのです。

 イエスさまは、人と共に歩むことを選ばれた、そのために人となられました、それはイエスさまを通して、私たちが人として生きるにはどうしたら良いのか、を知ることができるようになるためです。イエスさまは神さまに忠実に、神さまに聞き、みこころを知ろうとされ、十字架の死に至るまで神に従われました。それが神さまの願いであり、私たちの救いのためにどうしても必要なことだったからです。やみくもにただロボットのように言われるがままになることが従順ではありません。神さまの願い、みこころを聞くこと、知ろうとすること。そこに交わりがあるのです。その中で私たちは導かれ、生かされていくのです。

 私たちはどこかで、神をまるで横暴な絶対君主であるかのように、高いところで腕組みをして私たちを見下ろしているかのように誤解している面があるかもしれません。けれども神さまのご性質は、何よりもご自身を徹底的に低くされたキリストの生き方に現されているのです。ですから、キリストは神が受けるべき栄光を受けられたのです。
 ピリピ2:9-11にはこのようにあります。

 「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、全ての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」

 これは、サタンさえもイエスさまの前にひざまずくという宣言です。
 神でありながら人として十字架の死に従うまでにご自身を低くされたイエスさまのお姿は、はいあがろう、人の上に立とうとする代わりに人の下に置かれることを願う生き方です。一番高いところにおられたキリストは、一番低いところへ行かれ、そしてまた、一番高いところへ行かれました。主イエスさまはご自分を無にした結果、神の右の座につかれました。
 私たちは人の価値がその生産性ではかられるような世界に生きています。けれども人の価値は、どれだけ偉大なことを達成できたかではなく、どれだけキリストのように、自分を低くして神と人とに仕えたか、ということが問われるのです。

 先週木曜の夜に、突然私のスマホの充電ができなくなりました。バッテリーが0になり、画面も真っ暗で全く動かず、あれこれ調べて試してみましたがどうにもならないので、翌日金曜日に予約をとって、iPhoneを使っているので心斎橋のApple Storeに修理依頼に行きました。まだ問題は完全に解決してはいないのですが、一応今現在なんとか使えるようにはなっています。たった一晩、スマホが使えなかっただけのことですが、誰とも連絡をとることもできない、普段だったら簡単に調べられるお天気やバスの時刻やそういった情報を得ることもできない、大事な連絡が入るかもしれない、週報にも連絡先として私の携帯番号が公開されているし、母の施設から何か緊急の連絡が入るかもしれない。
 誰ともつながっていない、連絡が取れない、つながりが絶たれた気がしてとても不安でした。Apple Storeである方法でスマホが立ち上がった、電源が入った時には本当に安心しました。使えないと不便だ、ということもですが、つながりが回復したことが嬉しかったのです。どんなに立派な性能があったとしても、「つながるかどうか」はとても大きなことです。私たちが神さまとつながっているかどうか、断絶していないかどうか。

Ⅲ.むすび

 これから4週間、きっとあちこちでクリスマスの飾りを目にし、またいろいろなクリスマスストーリーを聞くことでしょう。私たちはこのクリスマスストーリーを、お話として終わりにしてはいけないのです。神である方、大切な御子イエスさまをこんなみじめな道を辿らせても、私たちが神さまの愛、罪のゆるしを得て、断絶された神さまとの関係を取り戻すなら喜んでその道を辿ろう、と決断され、十字架にまでかかられて、どうしても私たちを取り戻そうとされた、その神さまの真剣さ、本気さをぜひ知っていただきたいのです。聖書が語る救いとは、私たちが何か修行を積んであるところまで到達することではなく、向こうから来てくださった、私たちのところへ降りてきてくださった、これが救い、これがクリスマスなのです。

 私たちはイエス・キリストを私の罪からの救い主と信じるなら、神とつながる永遠の命をいただいたのです。持っているのです。信じるなら、いただくことができます。
 ひとりぼっちではない。私をご自身の目的を持ってお造りくださった神さまとつながっていることができます。どう生きていったら良いのか悩むときにも、あなたと一緒に生きるためにキリストは神であるのに人となってくださったのです。あなたへの神さまの決断、思いを受け取って、イエスを主と告白し、このイエスさまと共に歩む人生、イエスさまをほめたたえる歩みをこのクリスマスから新たな思いで始めさせていただきましょう。

(記:信徒伝道者 小暮敬子)