2025年10月5日 礼拝説教 「主のわざと私たち」
聖書: 詩篇 8篇
Ⅰ.はじめに
私たちは、偶然にひとりで勝手に生まれてきたのではなく、生かされています。親の力や願いなどをはるかに越えたお方である主の思いと働きによって生まれてきました。そう、私たちが生まれたのは、主のわざによるのです。「主のわざ」とは何か。今の私たちとどんな関係があるのか。ともに、みことばに聴きましょう。
Ⅱ.みことば
1.主のわざは作品に(詩篇 8篇1~4節)
「主のわざ」とは何か?「わざ」とは、例えば大工さんや料理人の「職人わざ」と言いますね。それは、その人がした仕事や働きを指します。職人の熟練のわざは、材料の選び方や作業の仕方、そして何よりも出来上がった「作品」でわかります。それと同じように、「主のわざ」とは、主である神様がなさったことです。それは、出来上がった「作品」のすばらしさによって、私たちの目にもはっきりとわかります。
先ほど共にお聴きした詩篇8篇は、ダビデという紀元前1000年頃に実在したイスラエルの王様が書いた讃美歌です(表題を参照)。1~2節では、天と地という大きなスケールで讃美と、「幼子たち 乳飲み子たちの口」(2節)という小さい者たちによる讃美とが、非常に対照的です。次に「主のわざ」が出てきます。3節を読みましょう。「天」は神様の指のわざであり、「月や星」も神様が整えられたものだと歌われます。つまり、主のわざは、天や月や星などの、神様が造られた作品によって、私たちにもはっきりとわかるのです。そして、ダビデは天のかなたの月や星を見て、「人とは何ものなのでしょう」と歌います(4節)。広い宇宙で輝く月や星と比べればこんな小さな私を「あなたが心に留められるとは」と驚きと感動を歌っています。この感動や驚きの感覚を私たちも味わいたいものです。
2.主のわざと人の仕事(詩篇 8篇5~9節)
では、「主のわざ」と「私たち人間」とは、どんな関係があるのでしょうか。5節を聴きましょう。まず第1に、私たち人間そのものも、神様のわざによる「作品」なのだと歌われています。このことを、『聖書』の最初の書物である「創世記」の1~2章は、今も私たちに示しています。天と地、光と闇、海と地に芽生える植物、太陽と月や星、海の生き物や空を飛ぶ鳥、地の生き物、家畜や地を這うものなど、すべてを神様が造られたあとに、最後に神様は、私たち人間を「神のかたち」に神に似せて造られ、「これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました」(5節)。私たち人間は、神様の最高傑作、自慢の作品として、神様との親しい交わり、心のつながりや交流を深める者として造られました。私たちひとりひとりの存在は、神様の最高のわざの表現なのです。
「主のわざ」と「私たち人間」との関係にはもうひとつの独特なものがあります。6節を聴きましょう。それは、神様の「御手のわざ」を「治める」という、私たち人間に任された仕事です。例えば、「主のわざ」である「木」を加工して家を建てるというのが「人のわざ」ですし、農業や林業、漁業や牧畜業などの様々な産業や地球の環境を適切に管理するのも「主のわざ」をよく観察し、ケアをし、生活に役立てる「人のわざ」です。自然科学は、『聖書』に示されている、この世界や宇宙を造られた「主のわざ」を、その法則やしくみを詳しく調べることから発展したそうですから、エデンの園を耕し、動物たちをよく観察して名前をつけたアダムとエバは最初の科学者だったとも言えるかもしれません。
3.作者への反逆と回復のわざ(ヘブル人への手紙 2章6~15節)
「主のわざ」と「私たち人間」との関係について、思いをめぐらしてきました。もう一つ、心に留めましょう。良いものとして、神様の作品として造られた人間が、「悪魔」の誘いにのって造ったお方の真実と愛を疑い、アダムとエバは造り主に反逆し、神様との関係はこわれ、この世界の悲惨、被造物のうめき、人間の死というものが始まりました。
しかし、神様は、ご自身から離れた私たちの悲惨を望まず、ご自身との間の関係の回復、その大部分が破壊されてしまった私たち各自の「神のかたち」の回復のために、ご自身の御子イエス様をこの地に送ってくださいました。この詩篇8篇は、「新約聖書」のヘブル人への手紙2章6~15節に引用されます。イエス様は、「死の力を持つ者、すなわち、悪魔を」(2:14)、十字架での「ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するため」(2:14~15)に、人として来られました。イエス様を信じ受け入れる人には、「神のかたち」の回復という「主のわざ」が始まるのです。 主のわざ、神様と人との関係の回復のわざは、自分が知らないところでも進められています。私が高校生だった時のことです。帰り道で中学時代の友達にバッタリと会いました。「イエス様を伝えよう」と、天地創造と人の罪、イエス様の十字架と復活と救いと、しどろもどろながらも話しましたが、そう単純には信じないだろうと思いました。でも、その人のためお祈りだけは続けました。その後も何度か、その人とは帰りが一緒になり、ある日、教会に誘いますが断られます。手紙まで書くのですが、電話で「模擬試験で行けない。でも教会にいつか行くと思う」と断られました。その22年後、40歳になった時の中学の同窓会にその人も来ていました。話してみると、結婚相手がクリスチャンで自分も信じて洗礼を受けたと言うのです。私は高校時代に少し関わっただけ。主のわざだなあと感謝しました。中学の同学年でクリスチャンは私だけでしたが、今は二人。今も出身中学のある埼玉県の所沢に住むこの人を通して、同窓生がイエス様を信じて救われるようにと祈っています。
Ⅲ.むすび
ここで、「主のわざ」と「私たち」と「この世界」のこれからが見えてくるのではないでしょうか。ローマ8:28~30を見ましょう。「神を愛する人たち」、つまり、イエス様を信じて「神のかたち」に回復され始めた人々のためには「すべてのことがともに働いて益となる」(8:28)。何のための益か?自分の思い通りになるための益ではありません。「御子のかたちと同じ姿に」(8:29)なるための益です。それは「この世界」の動植物や環境など主に造られたもの(被造物)全体も、苦しみうめきながら待ち望む「新しい天と新しい地」の到来によって完成される「主のわざ」です(8:19-22)。「聖餐」の恵みを受け、主への愛を育てられる「主のわざ」を経験しつつ、今週を過ごしましょう。
(記:牧師 小暮智久)