2025年9月21日 礼拝説教 「神を愛すること」
聖書: マタイの福音書 22章34〜40節
Ⅰ.はじめに
9月後半になり、ようやく暑い夏の終わりが見えてきたように思います。日本には春、夏、秋、冬、四季があるはずですが、年々春と秋が短くなっているような気がして残念です。しばらく、エアコンのいらない、気候の良い貴重な季節を大切に過ごしたいと思っています。
今からちょうど10年前の2015年、私はアメリカのフリーメソジスト教会の北米総会に初めて出席させていただきました。フロリダの大きなホテルのコンベンションホールで、世界中の様々な国から参加者があり、全体が集まる集会には2000人を超える人々が出席していたのですが、その中で何回か、「私たちフリーメソジストの使命を告白しましょう」という時間があり、皆で声に出して一緒に告白したことがありました。それは、「神を愛し、人を愛し、弟子を作る」という3つのことです。フリーメソジストは世界中が1つの教会なのですが、私はそれまで日本で「私たちフリーメソジストの使命」と聞いたことはありませんでしたが、ようやく日本でもこの度翻訳しなおされた教団の教憲にその言葉が載っているようです。(先日お配りした教団の40周年記念誌にもその教憲は載っています)この10年、あちこちSNSでこの言葉を目にしていましたが、標語としては理解できるのですが、「神を愛する」というのは、具体的にどういうことだろうか、どうすることが神を愛するということなのだろうか、としばらく思い巡らしておりました。
「神を愛するって、実際にはどういうことですか」ともし誰かに聞かれたとしたら、皆さんはどのようにお答えになるでしょうか。実際に、目に見えない、触ることもできないお方を愛するというのは、どうしたら良いのでしょうか。
Ⅱ.みことば
今朝はマタイの福音書22章を開いています。イエスさまが律法の専門家から、「律法の中でどの戒めが一番重要ですか」と尋ねられました。その問いは、答えを知りたいというよりも、イエスさまを試そうとして、罠にはめて非難の材料を見つけて評判を落としてやろう、という意地の悪い動機からの質問でした。この質問に対して、イエスさまは端的にこのようにお答えになりました。(22:37-39)
「『あなたは心を尽くし、命を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」
ある意味でこの答えは完璧でした。確かに第一の戒めは「シェマ」と言われる最重要な戒めだとユダヤの人々は考えていました。ですが、もしこれを一番大事だとイエスさまが答えたならば、それまでのイエスさまの行動が、律法学者たちから見たら「先祖たちが守ってきたように伝統的慣習を守ろうとはしない、平気で破っている、それが神を愛する者のやることなのか」と言って、神を愛していない異端児扱いをするつもりでした。
けれどもイエスさまはそのような攻撃の隙を与えず、間髪を入れずに「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という第二の戒めも同じように重要だ、と言われました。自分の全存在を上げて全力で神を愛するということと、隣人を愛するということは切り離すことはできない、神への愛は、神の愛の対象である人々を、神が愛するように愛すること、神への愛は隣人愛で実証されるのだ、と言われたのです。
ヨハネの手紙第一4:20にはこのように書かれています。
「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」
イエスさまご自身は神さまへの愛をどのようにして証明されたでしょうか。
イエスさまは、律法学者たちが相手にしなかった、目の見えない人、足の悪い人、病人に癒しの手を差し伸べられました。また律法学者たちが罪人として関わろうとしなかった取税人、遊女たちとも食事を共にされました。イエスさまはご自分の近くにいる人々を分け隔てなく愛されました。当時人々から価値の低いものと見られていた子どもたちがそばに来た時には彼らを祝福されました。十字架上では、隣の十字架につけられていた強盗に「あなたは今日私と共にパラダイスにいる」と約束されました。イエスさまが神を愛しておられなかったのではないことは、この第二の戒めを実践したことによって明らかです。
当時のユダヤ人も、隣人愛は大切だという認識は持っていましたが、「隣人」という時、自分たちの仲間や同胞といった抽象的な概念でしか捉えていなかったのです。異邦人(ユダヤ人以外の人)や障害のある人、そばにいて不快な存在を隣人として認識していなかった、できなかったのです。
1ヨハネ5:3「神の命令を守ること、それが神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」守るべき神の命令とは何でしょうか?いくつもあげることができるかもしれません、いろいろな表現があるかもしれませんが、ヨハネの手紙第1の4章には、繰り返し繰り返し、「互いに愛し合いなさい」と書かれています。神さまの命令とは愛しあうこと、「愛すること」によって、神を愛している者であるかどうかがわかるということです。戒め、命令と聞くと何か束縛されるような、自由を奪うものというイメージがあるかもしれませんが、義務ではなく、愛から出ているならそれは重荷とはならないのです。
私たちは神さまに愛されている存在です。神さまの愛を受けて生きるようにと私たちは神さまによって造られたのです。だからまず、その愛を十分に受けなければなりません。神さまの愛を受け取ることが神を愛することだとも言えるかもしれません。神さまに愛されて生きる、それが私たちのあるべき姿です。
イエスさまはまさにそのような生涯を送られました。イエスさまは神に愛されました。バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という声がしました。その神さまの愛を受けて、イエスさまは地上での生涯を通して人々を愛し、神がどのようなお方であるか、その生き方を持って示され、私たちに模範を残されたのです。神に愛され、人々を愛する、その姿を通して神がどのようなお方であるのかを証しする、そして最後まで神さまのみこころに従い通された。このキリストのように生きることが私たちにも求められているのです。
ヨハネの福音書15:9-12にはこのように書かれています。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しあうこと、これがわたしの戒めです。」
また、同じヨハネの福音書13:35には
「互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」
とあります。神に愛され、人々を愛する、その姿を通して人々がキリストに導かれていく、これが私たちフリーメソジストの使命なのです。
Ⅲ.むすび
愛の反対は無関心だと言われます。憎しみではなく無関心。一般的な意味でも、相手が神さまでなくても、愛しているなら、一緒にいたい、もっと知りたいと願うことでしょう。
神を愛するとは神を知ること。もっと知りたいと求めること。神さまのみこころは何か、私に何を願っておられるのか、どのように生きることを求めておられるのか、それを知ろうとすることも神さまを愛することです。
時に神さまのために何かをしたいと思っても、自分の限界や現実の自分の姿におそれを感じることがあるかもしれません。けれどもそれでもなお愛してくださっている神さまの大きな愛に触れる時に、私たちは本気で神さまを愛する人になっていくのです。神さまに愛され、神さまを愛する者として、共にいてくださるイエスさまに支えられて、助けていただきながら、今週も歩ませていただきましょう。
(記:信徒伝道者 小暮敬子)