2025年7月20日 礼拝説教 「神を待ち望め」

聖書: 詩篇42:1〜11

Ⅰ.はじめに

 今朝は旧約聖書、詩篇42篇のみことばを開いています。合同礼拝で良く歌われる、そして先ほど賛美いたしました「鹿のように」という曲のもとになっているみことばです。

 「谷川の流れを慕う鹿のように 主よ我がたましい あなたを慕う」という歌詞でこの賛美は始まります。谷川の流れを慕う鹿、と聞くと、何かとても美しい情景を、例えば緑の牧場で羊たちがのんびりと、何の心配もない憩いの中にいる、そして豊かな流れのそばで自由に水を飲むことができる、そのようなイメージを思い浮かべるのではないでしょうか。実はこの詩篇の箇所で鹿が水をしたい求めるというのは全く違う状況のようです。

 この暑さの中で私たちも喉の渇きを覚え、冷たいお水やお茶を飲みたいと思うことはあります。最近では熱中症予防のために水筒やペットボトルを持ち歩いていつでも飲めるように準備しておくとか、もし持っていなくても街中にはコンビニも自動販売機もありますし、自宅に帰れば飲むことはできます。ところが、この詩が書かれたイスラエルの国では、雨季には水があふれていますが、乾季になると川底が見えてしまうほど、どこにも水がない、という状況になるようです。水を求めるのはいのちがけの渇き、同じように水を求めて近寄ってくる肉食動物がいて襲われてしまうかもしれないし、危険な崖から転落することもあるかもしれない。でも、水を飲まないでいると死んでしまうので、川底にわずかに残る水を鹿はしたい求めるというのです。

 そのような切実な思いで、いのちに関わるようなこととして神さまをしたい求めるということが普段私たちにあるだろうか、と思います。

Ⅱ.みことば

 この詩篇を書いたのは誰かということについては、諸説あるようですけれども、バビロン捕囚を経験し、かつては神殿での礼拝の交わりの中にいたけれども、今はエルサレムを離れ、神殿を離れ、敵に囲まれ、「お前の神はどこにいるのだ」とあざけられる中で、神さまに飢え渇いてしたい求めている状態にあった人ということのようです。2節には「私のたましいは 神を 生ける神を求めて乾いています」とあります。3節には、「昼も夜も 私の涙が私の食べ物でした」と書かれています。一日中涙を流し、嘆いている、でも状況は変わらない、苦難は去らないのです。その嘆きと共に、平和で自由に神殿で神さまを礼拝することができた日々を思い出しています。

 異教の人々から、こんな惨めな状況になって「おまえの神はどこにいるのか」というあざけりの声が聞こえてきます。時に私たちも同じような経験をすることがあるかもしれません。他の人から言われなくても、自分自身の内側の声として、神さまあなたは今どこにおられるのですか、私の今のこの状況をどう思っておられるのですか。なぜですか、神さまに訴えたい、どうして?と言いたい、神さまを信じていてもどうにもならない、神さまは何もしてくれないじゃないか。

 確かに6節には「私のたましいは私のうちでうなだれています」とありますし、9節には「なぜあなたは私をお忘れになったのですか」とありますから、確信に満ちて、生き生きと神さまへの信頼にあふれていたというわけではないのでしょう。けれども、この詩篇の作者はとにかく自分の思いを神さまの前に正直に注ぎだしました。そして、5節と11節はほぼ同じことばですが、このように告白しています。

「わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。

 なぜ わたしのうちで思い乱れているのか。

 神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。

 私の救い 私の神を」

 確かにつらい、苦しい、うなだれても仕方がないような状況にある。けれども「おまえの神はどこにいる」と人から言われ、自分自身でも神さまを信じていてどうなるんだという気持ちを持ちながらも、とにかくその思いを神さまに申し上げたということです。神さまを待ち望む姿勢を忘れてはいなかったのです。

 私たちは自分の気持ちを正直に神さまに訴えることができます。
 私たちは、他の何かで自分の渇きを満たそうとしてしまうことがあります。痛みから逃れたいし、「待てない」ので手軽な何かで、「向き合う」ということより早く何とかしたい、渇きを癒したい、楽になりたい。でもそれは一時的な慰めにはなるかもしれないけれども本当の解決ではない、真の癒やしにはならない。

 私たちは自分の気持ちを正直に受け止め、それを祈りに変えることができます。神さまが私たちの心の奥底にある絶望感を受け止めてくださるからです。自分の心を正直に見つめ、その絶望感に耳を傾け、それを神さまに告白する。神様に求めることは、実はそこで神さまを身近に体験できる機会、絶望と神さまの臨在の体験とはしばしば隣り合わせなのです。

 工藤篤子さん、という地中海ソプラノと言われる歌手の方がいらっしゃいます。私たちの教会にも来ていただいたことがありますが、先日堺でコンサートをされたという記事をインターネットで見かけました。そこで工藤さんが歌われた曲の中に、「この手を組んで」という曲があったと紹介されていて、YouTubeで探して聞いてみました。工藤さんご自身が歌っているものではないのですが、その歌詞の深みというか重みが、私の心に響いてきました。歌詞をご紹介したいと思います。

<この手を組んで>

私の小さな手は何もできないけれど

この手を組んで祈るとき、神の御手が動く

 こたえは必ずやってくる 神の時がくれば

 「私が必ず助ける」と主の約束があるから

愛する人のために 傷ついた友のために

泣きながら 叫びながら 祈る日もあるけれど

 こたえは必ずやってくる 神の時がくれば

 「私が必ず助ける」と主の約束があるから

主イエスの御名によって 祈りは聞かれている

いつの日か天国ですべてわかるだろう

 こたえは必ずやってくる 神の時がくれば

 「私が必ず助ける」と主の約束があるから  作詞:Trygve Bjerkrheim

 神さま、なぜですか、どうしてと問うことは間違ってはいないと思います。けれども求めている答えがすぐ見つかるとは限らない。なぜか、ということはわからないことは多い。けれども、神さまに祈ることは許されている、問うことはできる、私がいつも申し上げていることですが、それがたとえ文句であっても、あるいは怒りをぶつけることであったとしても、神さまにそれを申し上げることは、神さまに背を向けることではなく、神さまとの関係を絶ってしまうことではなく、神さまとのつながりを持ち続けることになるのです。祈りは聞かれています。神さまは答えてくださいます。私たちが願うような考えるような形で、ではないかもしれない。でも、神さまは答えてくださる、助けてくださる。自分の思いを素直にそのまま申し上げれば良いのです。

 神を待ち望む。詩篇の作者は絶望を感じる中で、「おまえの神はどこにいるんだ、何をしてくれるというんだ?」とあざけられる中でも、神を待ち望む、私はなおも神をほめたたえる、私の救い、私の神を。と告白しています。

Ⅲ.むすび

 あなたは今、どのような状況に置かれているでしょうか。困難や病や、辛さや悩みに覆われて窮地に立たされておられるかもしれません。けれども今どんな状況にあったとしても、神さまはこの42篇を通して「わがたましいよ なぜうなだれるのか。なぜ思い乱れているのか。神を待ち望め、私の救い、私の神に」という切なる祈りに加わるように、私たちを招いておられるます。神さまは私たちを見捨てることなく、必ず助けてくださるからです。私たちは1人ではない、自分で祈れない、立ち上がれないような時にも、祈ってくれる人がいます。自分の中にどうすることもできない神さまへの渇きがあることに気づいたなら、本当にそれを満たすことのできるお方、神さまに心も思いも向け、神さまの働きを待ち望みつつ、今週も歩ませていただきましょう。

 「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなた方の願いごとを神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」

ピリピ人への手紙4:6〜7

(記:信徒伝道者 小暮敬子)