2025年6月15日 礼拝説教 「私にあるものをあげよう」

聖書: 使徒の働き3章1〜10節

Ⅰ.はじめに

 今朝こうして献堂59周年の記念礼拝を共におささげできることを心から感謝いたします。伝道開始は1923年、教会の歴史としては102年になります。教会の名称は何回か変わっていますが、ここに移って来るまでは阿倍野にある大阪キリスト教短期大学、大阪キリスト教学院の中で「大阪丸山教会」(その前の名称は大阪第3教会)として礼拝をささげておりました。学校の施設を使わせていただく、ということではなくて自分たちの教会堂を、と祈り、検討を重ねて、当時の方々のさまざまなご苦労があって、現在のこの湯里の地に教会堂が献堂されて59年ということになります。献堂してからの59年だけでもいろんなことがあったと思いますが、伝道開始からの100年間のことを思うと歴史の重みを感じます。教会3階の棚には、第2次世界大戦中の週報もあります。流石に昭和20年8月の週報はないのですけれども、本当に古い、戦前の受洗志願書なども記録として残されています。そうした歴史を経て今日がある、ということを覚えたいと思います。

Ⅱ.みことば

 先週がペンテコステ、約束された聖霊が与えられ、弟子たちがその聖霊の力によって大きく変えられて、迫害の中でも大胆にイエスさまのことを宣べ伝えて行ったことが「使徒の働き」の中に記されています。今日開いている3章は、ペンテコステに誕生した教会のその本当に初めの頃の出来事、「美しの門」と言われるところでの生まれつき歩けなかった人の癒しの出来事です。

 当時のユダヤ人は、朝9時、昼12時、午後3時と日に3度の祈りをささげていたようですが、午後3時にペテロとヨハネが祈るために宮に行くと、「美しの門」と言われるところに、生まれつき足の不自由な人が運ばれてきました。大勢の人が通るところに、自分では歩けないので運んでもらってそこへ置いてもらっていたわけです。そこで彼は人々に施しを求めていました。その日1日食べられるだけのお金をもらうことができれば、それが彼にできる全てだったのかもしれません。当時の考えでは施しは「祈り」と等しい善行、徳の高い行為とされていたので、実際施しをする人は少なくはなかったのでしょう。けれどもそれは、自分のため、自分は良いことをした、神さまも喜んでくださるだろう、ということであって、この人自身を尊び、この人に目を向けていたわけではありませんでした。おそらくは顔を見ることもなく、小銭だけを投げ与えて通り過ぎて行ったのではないかと思います。福音書の中でも、弟子たちがいやしを求めて叫ぶ人を黙らせようとしたり、本人の目の前で「この人が生まれつき目が見えないのは誰の罪ですか?本人ですか、それともその両親ですか?」とイエスさまに尋ねるという無神経なことをしていますから、当時の考え方として慈善事業の対象として憐れむことはしたとしても、その人自身に何かしらの罪の呪いがあると考え、人格は否定されていたのです。

 ところがここでペテロとヨハネはそのような見方をしませんでした。この人に目を留め、「私たちを見なさい」と注目させ、手を差し伸べ、立たせて、神さまを賛美する仲間に加えました。2章で誕生したばかりの新しい教会、キリスト者の共同体は、当時の社会が人として扱ってなかった人をも受け入れ始めたのです。6節でペテロはこのように言いました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」
 健康な人であっても、病気でしばらく寝ていたり、手術の後起き上がることなく横になって過ごした時など、すぐに立って歩くことはできません。この人は4:22には40歳を過ぎていた、とありますが、生まれてから歩いたことがないわけですから、筋肉もなかったでしょうし、いくらペテロが手を取って立たせたとしてもそう簡単に歩けるようになるとは思えません。けれども「ナザレのイエス・キリストの名によって」彼の足とくるぶしが強くなり、踊り上がって立ち、歩き出した、というのです。歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ、ペテロとヨハネと一緒に宮に入って行ったのです。

 彼はそれまで宮の中に入ることは許されませんでした。40歳を過ぎるまで長い間異邦人の庭と言われるところで施しを求めていたのです。その人が歩けるようになり、神さまを賛美している姿を見た人たちは「そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた」(10節)と書かれています。11節以降でこの驚いた人たちに対してペテロは、あのペンテコステの日にも大勢の人々の前で大胆にイエスさまこそが救い主であることを宣べ伝えましたが、この奇跡が起きたのは自分の力ではなく、イエスの御名によるのだと宣言しました。そしてそのイエスを「あなたがたが殺した」と厳しい指摘をしました。それは、主に立ち返るために必要な、罪を自覚させるためでした。
 宮に入ることを許されず、門の前で施しを受けるだけだった人のところに、宮で礼拝されていた神のしもべご自身が飛び出してきて彼を立ち上がらせ、礼拝の中に招き入れてくださった。それは、当たり前のように宮で礼拝をしていた人々にとっては開いた口が塞がらないほどの出来事です。そしてペテロはそれをこの人の信仰や自分たちの力のせいではなく神ご自身がそのようなお方なのだ、というメッセージとして人々に伝えているのです。

 この日、この出来事を目撃した人たちは、やはり2つに別れました。ペテロの語ったことを通して罪が示され、イエスさまの十字架の死と復活を信じて神に立ち返った大勢の人があった一方、ペテロとヨハネは、「自分たちの権威と立場を守るために都合の悪い者を排除しようとする勢力」によって逮捕されました。ユダヤ人の議員たちの最高法院サンへドリンが召集され、議会が開かれたわけですが、かつて人々を恐れて逃げたペテロが、議会の真ん中に立ち聖霊に満たされて、「もう2度とイエスのことを口にするな」と脅されても、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません」(4:19)脅しに屈することなく、2人はキリストの復活の証人としての使命を果たしたのです。

Ⅲ.むすび

 さて、ペテロとヨハネは、3:6で「私にあるものをあげよう」と言いました。「私にあるもの」とは何でしょうか。私個人もですが、教会が提供できるもの、教会しかできないことは何でしょうか。4:12のみことばをお読みします。
 「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」
 「この方以外には救いはない」というと、キリスト教は排他的、独善的でいやだ、という方もあると思いますが、問題は「何からの救いか」ということではないでしょうか。砂漠で瀕死の状態の人には水が救いでしょう、莫大な借金を抱えているならその借金を肩代わりしてくれる人は救い主でしょう。けれども神さまから離れて罪の中にいる私たちが、罪赦されて神のもとに立ち返り、神さまの子どもとしての立場を回復され、永遠のいのちをいただくには、イエスさまによるしかない、このお方を通してでなければ、誰も父のみもとに行くことはできない。イエスさまが道であり、真理であり、いのちなのです。「イエスの御名」は神と人をつなぐ架け橋です。私たちもイエスさまのお名前によって祈りますし、人々の人生がイエスさまの御名によって神さまにつながることができるように、そのために私たちも用いられたいと心から願います。

 私たちに歩けなかった人を立たせるとか、そうした奇跡を起こすことはできないけれども、私にあるのはイエス・キリスト。信じているなら、皆私の内にイエス・キリストがいてくださいます。私は何もできないかもしれない、でもイエスさまのお名前には力があり、イエスさまにはおできになるのです。私にあるもの、それはイエスさまです。
 誰かに上手に言葉で説明することはできなくてもいいのです。私の内にいてくださるイエスさまがしてくださる、その通り良き管になることができれば、人々にイエスさまを紹介することができるのです。

 足の不自由な男性が求めていたことは日々の糧、今日を生きるためのお金でした。けれども彼の根本的な必要は、足が癒されることであり、イエスさまによる救いをいただくことでした。神さまは私たちが願う以上に必要をご存知であり満たしてくださるお方なのです。そして教会という共同体は、喜びの場です。人が救われること、祈りが聞かれること、必ずしも私たちが願った通りのことばかりは起こらないかもしれません。けれども主のみこころが天で行われるようにこの地の上にも行われますようにと祈り、主によって救われた人が共同体に加えられることを喜び、1人の人の人生が変えられる時共に喜ぶ、それが教会の姿です。
 来年私たちは献堂60周年を迎えます。今日の愛餐会で皆さんと共に、新会堂のことも含めて、神さまのみこころに沿った、神さまに喜ばれる歩みを私たちができるように共に祈りたいと思っています。
 教会に与えられている大きな使命は、このイエスさまを紹介すること。日々仲間が加えられていくこと、そして一緒に成長していくこと。60周年に向けての歩みの中でますます主のみこころを求め、私たち自身成長させていただき、新しい人が加えられていくように主の導きを求めてそのために私たちにできることをさせていただきましょう。

(記:信徒伝道者 小暮敬子)