2025年6月1日 礼拝説教 「主イエスにつながって生きる」
聖書: ヨハネの福音書15章1〜17節
Ⅰ.はじめに
今年は4月20日がイースターでした。クリスマスと違ってイースターは毎年日付が動きます。イエスさまが復活されて、弟子たちにお姿を現された出来事が福音書に記されていますが、「約束の聖霊が与えられるのを待ちなさい」と言われて、やがてイエスさまは天に挙げられて行かれました。キリスト教の暦では今日がその昇天、天に昇られたその記念礼拝の日であり、来週がペンテコステということになります。
Ⅱ.みことば
今朝はヨハネ15章、有名な箇所ですが、ぶどうの木のたとえです。これが語られたのは最後の晩餐の席上であったかもしれませんし、ゲッセマネの園へ移動する途中にぶどう園があったのかもしれません。いずれにしても、ぶどうは当時のユダヤの人々にとって日常にある植物であったようです。
1節は「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」という言葉で始まり、5節には「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」と書かれています。イエスさまという木につながっている枝である私たち、とここでは例えられているわけです。確かに、クリスチャンというのはキリストにつながっている者のことです。つながっているなら成長し、やがて実は結ばれるのです。実を結ぶために枝がしなければならないのはつながっていること、キリストにとどまることだけです。自分の努力や修行によるのではなくキリストにとどまること。4節には「わたしにとどまりなさい。わたしもあなた方の中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことができません」と書かれています。面白いと思うのは、枝が木につながっている、というのはもちろんわかりますが、ここでは「わたしもあなたがたの中にとどまリます」と、一方的に私たち枝が木にしがみついているということではなくて、イエスさまもまた私たちのうちにとどまると言ってくださっているのです。
イメージとして、とどまる、つながるというと、じっとしていて何もしない、ただ自動的に栄養が流れてきていつの間にか実が実る、という感じがするかもしれませんが、ここで言われている「とどまる」とは何もしないことではありません。「一緒に時を過ごす」と言い換えることができるかもしれません。私たちはイエスさまからみことばを聞き、祈り、聖餐にあずかる、これらによって影響を受けて変えられて、愛の戒めを守ることができるように整えられていくのです。
7節−8節には「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります」とあります。「本当に何でも欲しいものを求めたらかなえられるの??」と私など思ってしまいますが、17節にある「あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれをあなたがたに命じます」という戒めを教えておられるということに心を向けなければなりません。互いに愛し合う戒め、私たちはそれを自分の力で行うことはできません。イエスさまにとどまることによって与えられる愛によってのみ、守ることができます。その時には、私たちの願いは神さまの願いになっています。父なる神さまとイエスさまは1つでした。私たちもイエスさまとつながり、イエスさまと1つになることを通して、イエスさまの心と私たちの思いが1つになる、そして神さまがそれを実現してくださる、ということです。自分の、私個人の願いがかなえられるということではありません。イエスさまとつながっていることによって、私たちの心が変えられ、神さまの願いを願うようにされるからです。実を結ぶことは、私たちの栄光ではなく、天のお父さま、父なる神さまが栄光をお受けになるのです。
9節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」キリストにとどまるということは、キリストの愛の中にとどまるということです。私たちは愛され、神さまを愛し、私たちお互いを愛する。これが主の願っておられること、戒めです。イエスさまを信じ、神さまの中に生きることと、兄弟姉妹を愛することは決して切り離すことはできません。神さまは私たちがお互いに愛し合うところにご自身を現してくださるのです。私たちは全てイエスさまという1つの木につながる枝同士、主にある兄弟姉妹であるということです。ここに教会に集う者の交わりの基礎・土台・動機があります。人間的な感情や考え、意見が教会の交わりの基礎ではなく、主イエスという木につながる枝であることが教会の交わりの土台なのです。1つの同じ木につながる枝だということです。
「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます」と5節で言われていますが、実とは何でしょうか。いろいろな説があります。ガラテヤ5:22に言われている「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」この9つが御霊の実と言われています。それも確かに実であるかもしれませんし、私たちが伝道することによってイエスさまを信じる人が増えていくこと、それも実と言えるかもしれません。けれども、個々人にとっての実というよりも、イエスさまという「1つのまことのぶどうの木としての実」と考えた場合、多くの実を結ぶとはキリストにある愛の交わりが成長していく、ということではないでしょうか。その交わりは周りの人を次々と引き寄せ、愛の交わりがまた成長してさらに多くの実りとなっていく、ということです。同じヨハネ福音書の13:34-35節には、このように書かれています。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛しあいなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しあいなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」
イエスさまにつながっているということは、イエスさまと命がつながっているということです。ただ知識としてイエスさまのことを知っているだけではありません。イエスさまを信じて、罪からの救いの惠みにあずかり、永遠のいのちをいただいている、ということです。この永遠のいのちは、地上での生涯を終えた後に天国にいくことができるいのち、という、死んでから、その後に効力を発揮するものではありません。ヨハネ17章3節にはこう書かれています。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」イエスさまとつながっていることができる、それが永遠のいのちです。
私たちはイエスさまを通して神の子とされています。イエスさまが7節で「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」と言われたように、主イエスさまのことばが私たちのうちにとどまっていることが大切なのです。そのみことばによって私たちはどのような時も生かされ、キリストに似た者へと成長させられ、キリスト者としてふさわしく整えられていきます。 今日は「刈り込み」ということについてあまり触れられませんでしたが、農夫である父なる神さまが良いぶどうを実らせるためにしてくださる働きに、私たちは身を任せていれば良いのです。そしてイエスさまご自身が父なる神さまの愛に全てを任せておられたように私たちもぶどうの木の一部とされた者として、御父と御子との愛の交わりの中に身を置いていればそれで良いのです。何か自分に足りないことがあるかのように、弱さや愚かさを恥じる必要はない、私たちは自分が、すでに豊かな実を結ぶと保障されたぶどうの木の一部とされていること自体を喜べば良いのです。刈り込みを何も恐れる必要はないのです。
Ⅲ.むすび
ぶどうの木にたくさんの枝が生えて長く伸び、たくさんの実を結ぶように、イエスさまの願いは私たち皆がしっかりとイエスさまにつながり、実を結ぶことです。 まことのぶどうの木につながる枝である私たちが、御父が栄光をお受けになるために、イエスさまにしっかりとつながり、イエスさまにつながっている枝同士、私たちは互いに愛しあい、さらに多くの実を結ばせていただきましょう。
(記:信徒伝道者 小暮敬子)