2025年5月18日 礼拝説教 「主の平安をいただいて」

聖書: ヨハネの福音書14章25〜27節

Ⅰ.はじめに

 緑の美しい季節を迎えました。植物に新しい若い葉が芽吹き、いのちを感じる季節でもあります。今日は予報では雨でしたが、雨だと来られないかたもあるかな、と案じておりましたけれども、こうして共に礼拝をおささげできることを感謝しています。

Ⅱ.みことば

 今朝はヨハネの福音書14章、イースターの午後の合同記念会の時に14:1-6のみことばを開きましたけれども、イエスさまが十字架にかかられる直前に弟子たちに語られたことば、ここから17章くらいまで、イエスさまの遺言のようなメッセージが語られています。
 27節でイエスさまは、「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます」と約束してくださいました。この時弟子たちは不安を感じていたと思います。以前からイエスさまはご自分がこの世を去る時が来ることは弟子たちに話しておられたと思いますし、いよいよその時が近いのだ、ということは感じていたとは思いますが、実際にイエスさまが捕らえられて十字架にかかられるとかお墓に葬られて三日目に復活なさるというその全てを弟子たちは理解できてはいませんでした。これから一体何がどうなるんだろう、先生はどこへ行かれるのだろう、そのような不安な心を持っているその弟子たちに対して、「あなたがたは心を騒がせてはなりません」と14章は始まっていますが、27節でも再びイエスさまは「心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません」とおっしゃっているのです。「心を騒がせてはならない、わたしはこの世が与えるものとは違う、わたしの平安をあなたがたに与える」と約束されました。この「平安」というのはどういうことでしょうか。

 私たちが考える平安というのは、無事であること、不安や心配がなく、平穏なこと、ではないかと思います。「変化が好き」という方もあるかもしれませんが、たいていは安定した生活状況であることを願っています。けれども実際には私たちの毎日にはそれと真逆な、心を騒がせたり不安になったり心配になったりすることが溢れています。経済的に豊かに満たされていること、健康で自由に動き回れること、人々から好意を持って受け入れられること、それらの自分を取り巻く環境が良好に整えられることによって得られる平安、環境に依存した平安、「世が与える」平安はそのようなものです。一時的かもしれないし、拠り所としていたはずが逆境においては音を立てて崩れ落ちていく、私たちはしばしばそのようなことを経験しているのではないでしょうか。この、世が与える平安を追い求め続けるなら、私たちは耐えず不安や心配をし続けることになります。

 それでは、主が私たちに約束してくださっている平安とはどのようなものでしょうか。
 それは、「神さまとの正しい関係を基盤として与えられる平安」ということです。平安がガラテヤ5:22に数えられている「御霊の実」の中にあるように、私たちの努力や意志の強さによって得られるものではありません。実は木の努力によってなるのではなくて、条件が整えば実が結ばれるもの、です。

 復活なさったイエスさまがそれこそ不安や恐れの中で隠れるように集まっている弟子たちのところにお姿を現された時、「シャローム」という挨拶を持って部屋に入ってこられました。「平安があなたがたにあるように」という翻訳になっているところもありますが、この「平安があるように」私たちの心に主の平安があることはイエスさまの願いなのです。私たちの心を騒がすもの、平安を脅かすもの、罪や病、痛み、傷、それら全てをイエスさまは全部引き受けて、十字架で全て葬り去ってくださった、私たちを贖い、救ってくださった、そこに私たちが平安を得る根拠があるのです。全ての人に約束されている救いを、受け取って欲しい、とイエスさまは願っていらっしゃいます。

 では、イエスさまご自身は、どのようにそのような平安を持っておられたのでしょうか。
 イエスさまは神の御子、神ですから、天の父なる神さまと共におられた時とは全く違う人としての生活をこの地上で送られました。罪人だらけの世界、肉体的な疲れを覚えることも、怪我をして血が流れることもあったでしょうし、教えても聞かない人もいれば裏切る人もいる。そして殺そうと企てる人たちがいる。そんな生活のどこに平安があるのだろう、と思います。けれども、イエスさまは私たちの基準からすれば確かに平安のないはずの中、平安を持っておられました。だから、この平安をあなたにも与える、とおっしゃるのです。

 イエスさまは父なる神さまと親しい交わりを持つ中で、平安を与えられていたのです。いつも父なる神さまに祈り、対話し、愛を注いでいただいて、神さまのみこころがどこにあるのか、それを忘れずに信じて、神さまに従われました。そして誘惑にも打ち勝ち、他の道へそれることもなく、一時的な平安や自分自身の思うがままに生きることを拒み、神さまの平安を経験されたのです。それは、心や身体の苦悩でさえ打ち消すことのできない平安でした。恐れや不安を避ける行動ではなく、父なる神さまの愛をいただいて信じていく中に平安を得たのです。

 私たちはどうしても、不安や恐れに支配されがちです。先が見えない、どうなるかわからない、孤独、理解してくれる、助けてくれる人はいない、様々な要因があります。けれども不安や恐れが私たちの心を支配すると、私たちは力を失ってしまうのです。恐れや不安が私たちの考えや行動を支配してしまうのです。

 イエスさまは、父なる神さまとつながっている中で、愛に満たされ、またその愛の故に導きに従い、揺るぎない信頼を神さまにおき、親密な交わりを持っておられました。その交わりの中にイエスさまは平安を持ち、いつも歩むことができたのです。この父なる神さまが一緒だから大丈夫、自分の想像をはるかに超えることをしてくださると信頼していたのです。

 そうしてイエスさまは、私たちに「聖霊」助け主を残してくださいました。ご自分は去っていかれるけれども、不安や恐れにコントロールされがちな私たちが、偉大な神さまの愛を知り、喜びで満たされるように、そしてこのイエスさまの救いを信じ、信頼して歩むことができるように。この聖霊さまは生きた人格を持った最高の助け主です。
 私たちは罪赦され、迫害にも負けず、孤児とされることもなく、世の終わりまでいつも共にいてくださる、そのような平安を、私たちは聖霊を通して知り、またいただくことができるのです。
 私たちはこの究極の平安を、イエスさまを救い主と信じ受け入れるならいただくことができます。罪の奴隷として滅びに向かうのではなく、神さまの子どもとされました。私たちは神さまとの父と子としての素晴らしい関係の中に招き入れられました。そしてさらに、自分1人でこの世で闘うのではなく、助け主なる聖霊さまが共にいてくださるのです。

Ⅲ.むすび

 私たちの人生は、私たちがコントロールすることができないことで満ちています。天候ひとつとっても思いのままにはなりません。コントロールできないものを自分の力でコントロールしようとするなら不安になることは避けられません。絶えず揺れ動く状況の中で平安を得ることができるとすれば、無力さを認めて神さまと神さまの確かな約束に信頼することによってしかありません。

 ピリピ人への手紙4:6−7をお読みいたします。
 「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。
 そうすれば、人のすべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」
 「何も思い煩わないで」がまず私たちにはハードルが高いのですが、みことばがここで私たちにすすめているのは、あらゆる場合にその思い煩いも含めて全てを神に知っていただく、神さまのところへ持っていく、ということです。ここに自分の努力や修行によって信じなさいとか委ねなさいとは書いてない、知っていただく、自分でそれを神さまの前に差し出す、ということです。そうすると何が起きるか。「人の全ての理解を超えた神の平安」私たちが長らく親しんできた口語訳聖書では、人知ではとうてい量り知ることのできない」と書かれていたと思いますが、その神の平安が、状況は何も変わらないかもしれないけれども、見た目にはむしろ悪い方へ進んでいるように思えたとしても、その平安が、あなたがたの心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくれます。これが神さまのお約束です。

 今週も、いろいろな私たちを不安や心配に陥れるたたかいがあるかもしれません。けれども、まことの平安、主の平安を心の内に満たしていただき、イエスさまのいのちによって結ばれた関係、平安の中を聖霊さまを通して歩ませていただきましょう。

(記:信徒伝道者 小暮敬子)