2025年4月6日 礼拝説教 「弟子の足を洗う主」

聖書: ヨハネの福音書13章1〜20節

Ⅰ.はじめに

 4月の第1日曜日、新しい年度が始まりました。今年のイースターは再来週20日です。クリスマス前の4週間はアドベントとして飾り付けをしたり、クリスマスを迎えるさまざまな準備やイベントがあります。今私たちはレント、受難節と言われる期間を過ごしていますが、クリスマスほど特別なことはないのが寂しい気もしますが、聖書のみことばを通してイエスさまの十字架、復活、昇天について、静かに思い巡らす期間として過ごしたいと思います。

 今日の聖書の箇所は、イエスさまが弟子たちの足を洗うというところのお話です。新約聖書に4つの福音書があり、それぞれに平行記事、同じ出来事がそれぞれの福音書に書かれていたりするのですが、この洗足の出来事はヨハネの福音書にしか書かれていません。順番に見ていきましょう。

Ⅱ.みことば

 過越の祭りという大切な祭りの時期になり、イエスさまはご自分が十字架にかかる時が近づいてきたこと、父なる神さまのもとにお帰りになる時が近づいていることをご存知でした。ヨハネ13:1には「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された」極みまで愛された、と訳している聖書もありますが、世をさる前にどうしても弟子たちに伝えておきたいことがありました。

 エルサレムのある家でイエスさまは弟子たちと過越の祭りを祝う特別な夕食をしました。有名な絵画にもありますが「最後の晩餐」と言われるものです。この直後にゲッセマネの祈りがあり、イエスさまは逮捕され、夜通し裁判にかけられ、十字架に向かわれることになります。その大切な最後の晩餐にイエスさまは12弟子を招き、一緒に食事をなさいました。その中には、驚くことにイエスさまを裏切るということがわかっているユダ、この後3度イエスさまを否定したペテロもいたわけです。他の弟子たちも結果として皆イエスさまが逮捕された時には散り散りに逃げていった、そのような弟子たちではありましたけれども、それでもイエスさまはその愛を残るところなく示された、極みまで愛されたのです。明日十字架にかかって死なれる、その前に、この十字架にこそ命があること、この関係の中に留まり続ける、イエスさまの命の中に日々生かされ「続けていく」ことを何よりイエスさまは訴えたのでした。

 イエスさまは4節、夕食の席から立ち上がって上着を脱いで手拭いを腰のところにつけて、たらいに水を入れると一人一人弟子たちの足を順番に洗って手拭いで拭き始められました。私たちも外から家に帰ると、まず手を洗ってうがいをして、ということをしますけれども、イエスさまの時代は家に入るとまず足を洗ったそうです。乾燥した埃っぽい舗装されていない道をサンダルのようなものをはいて歩いていたので、土や汗で足が汚れていたからです。足を洗うのはその家の召使いの仕事でしたが、この時には部屋を借りて食事をしていたので、そこには召使いがいなかった、誰も洗ってくれる人がいなかったので、弟子たちの足は汚れたままだったのです。そうだとしても、イエスさまがなさることではなかったはず、弟子の誰かがしても良かったと思いますが、弟子たちは「仕える」よりもその直前にも誰が一番偉いのか、という議論をしていたようなものたちでした。しかし先生が弟子の足を洗って拭く、というのですから弟子たちは驚いたと思います。

 ペテロの番になった時に、ペテロは思わず6節「主よ、他でもない師であるあなたが、この私の足を洗ってくださるのですか?」と言うとイエスさまは7節「私がしていることは今はわからなくても、後でわかるようになります」「いや、でも申し訳ない、そんなことをなさらないでください」8節「洗わなければ、あなたは私と関係ないことになります」

 ペテロにはもう訳がわからなかったでしょう。この時のペテロには理解できませんでしたが、イエスさまは弟子たちの足を洗うことによって、ご自分が弟子たちの罪をきよめる救い主であることをお示しになったのです。罪で汚れた心をきよめるために、私たちの罪を背負って十字架にかかることを教えられたのです。弟子たちはこの後に起こることをこの時点で予想していなかったと思いますが、イエスさまはこの十字架はあなたに無関係なのではない、あなたのためにも私はあの十字架にかかるのだと、一人一人思いを込めながらその愛を訴え続けたのです。

 「私の足を洗わないでください」とペテロは言いましたが、イエスさまは「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」とバッサリ仰った。裏を返せば、イエスさまが十字架で私たちの罪を身代わりに背負われることは、イエスさまとの関係の中に招き入れるため、神さまの命があふれるその関係の中に、神さまの家族の中に招き入れるため、十字架にかかられたのです。神さまが日々きよめ整えてくださるそのいのちの関係の中に。

 イエスさまは自分を裏切ろうとしているユダに対してもその愛を示されました。残念ながら彼はそれでもイエスさまよりも、神さまとの関係の中に生きることよりも、イエスさまを売り払うことを選び、そして最後は、悔い改めることよりも後悔のみで自ら命を絶つという結末を迎えてしまいました。 

 もう1つ、イエスさまが弟子たちの足を洗ったことには大切な意味がありました。

 皆の足を洗い終わると、イエスさまはもう一度上着を着て席に戻り、こうおっしゃいました。
 12-15節 『わたしがあなたがたに何をしたのかわかりますか。あなたがたはわたしを「先生」とか「主」とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。』

 互いに足を洗うと言うのは互いに支え合うこと。「仕える」と言うのは自分から進んで人を愛し、行動することです。弟子たちはそれまで「自分たちの中で誰が一番偉いか」と言い争って、互いに自分の方が偉いと考えていたので、仲間の足を洗ってあげようなどとは思いつきもしませんでした。そんな弟子たちにイエスさまは、ご自分が弟子たちを愛して仕えられたように、互いに愛しあい、仕え合うことを教え、模範を示された、実際に仕える姿を見せてくださったのです。それが十字架の時が迫ったイエスさまが、最後に弟子たちに伝えたかったことでした。

 私たちはユダのような悪人ではない、進んでイエスさまを裏切ろうとは思っていないかもしれません。けれども、イエスさまの十字架にまでも向かわれた愛、私のためにご自分の命をも投げ出して私を救ってくださったその愛に、どのように応答しているでしょうか。 口先だけではない、いのちがけでその愛を行動に移されたイエスさまは、罪深く汚れた者への愛の証として、私たちへの愛の証しとして、私たちの罪を身代わりに背負って十字架にかかられ、死なれました。神さまとの断絶という最大の哀しみ、苦しみさえ味わわれました。神の御子であられるのに、身代わりに死ぬ、神さまに呪われた者とされるというありえない経験もされました。それでも私たちへの愛を示されたのは、あなたをこの「いのちの関係の中に」招き入れるためです。復活によるそのいのちの恵みの中に、神さまとの和解の中に、神さまの家族の中に子として招かれたその関係の中に、私たちを招かれているのです。

Ⅲ.むすび

 この洗足の後の行動はそれぞれに委ねられました。ユダも、ペテロも、12弟子も、私たちも。私たちはこのイエスさまの愛に、どのようにお応えすることができるでしょうか。

 「父がわたしを愛されたように、私もあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい」ヨハネ15:9

 神の子イエスさまは、人をご自分に仕えさせるためではなく、人に仕えるためにこの地上に来てくださいました。神さまの愛を伝えて、悩み苦しむ人に寄り添ってくださり、私たちの罪をきよめるために十字架にかかってくださいました。このイエスさまを救い主と信じて罪から救われた人は、イエスさまの模範にならって、お互いに仕え合う愛を、心に注いでいただくことができます。自分のうちにはそんな愛はないかもしれない、自分で自分をきよくすることもできない、けれども、イエスさまがきよくしてくださる、そして互いに仕え合い愛しあう愛を、イエスさまが満たしてくださいます。

 イエスさまの救いを感謝し、イエスさまとの関係の中に留まり続け、信仰の仲間を愛し、互いに仕えあう真の弟子として今週も歩ませていただきましょう。

(記:信徒伝道者 小暮敬子)