2025年3月30日 礼拝説教 「あなたとともにいる」
聖書: イザヤ書41章10節
Ⅰ.はじめに
2024年度最後の日曜日、今朝もこうして教会に集まり、共に礼拝をおささげできますことを感謝します。
先週私は教団の中高生バイブルキャンプ実行委員会の委員として、夜の集会のメッセージ担当ということでキャンプに参加いたしました。私にとって学生時代に春と夏に行われたキャンプはとても意味深いものでした。キャンプに行かないと何か大きな損をするとさえに思っていました。フリーメソジストではなくその当時所属していた教団のキャンプ、普段はなかなか会えない別の教会の友達に会えるのも嬉しかったですが、何より神さまが、キャンプを通して私に毎回大切なことを教えてくださった、大きな恵みをくださった、その経験があったからです。悩んでいたことの解決が与えられた、神さまは本当に生きておられて私のことをよく知っていてくださるんだ、ということがわかった、私にとって教団のキャンプはそういう機会だったのです。今は教師、スタッフとして当時の私のような、人生これから、という若い方々と関わることができることを感謝しています。
Ⅱ.みことば
イザヤ41:10は、私の好きな聖書の箇所の1つです。何かあるたびに思い出して励まされ、ああ、そうだった、神さまは恐れるな、私はあなたと共にいる、と私に言ってくださっているんだ、ということをこれまでいくつも体験させていただきました。
私たちの人生には、思いがけず恐れてしまうようなことが起きるものです。思いがけないこと、こんなはずじゃなかった、なぜ私がこんな目にあわないといけないの?と思うようなことが起こる、ある意味でそれが人生です。教会学校では子どもたちに「神さまはあなたを愛してくださっています」「神さまはお祈りに応えてくださるんですよ」と教えています。それは決して嘘じゃありません、本当です。でも、イエスさまを信じていたら、クリスチャンになったら、もうバラ色の人生、全てがうまくいって嫌なことも辛いことも何一つない、全てが私の思い通りに、ということにはならないんです。残念ながら神さまが約束してくださっているのはそういうことではない。
旧約聖書の中で、イスラエルの民は、何度も神さまに助けていただきました。苦しい、神さま助けて、というと、神さまは助けてくださる。でも、しばらくするとそれを忘れてしまって、何度も何度も神さまを裏切るようなことをしてしまいます。でもそれでも神さまは見捨てることをなさいませんでした。
「恐れるな」の後に続く言葉は、「わたしはあなたと共にいる」一緒にいるよ、だから怖がる必要はないんだよ、ということ。そしてあなたを強くして、あなたを助け、守る、とこのイザヤ書41:10のみことばは約束しています。一緒にいてくださるのは誰ですか?
この天地万物の全てをお造りになり、支配しておられる神さまです。
旧約聖書の出エジプトの話もよくご存知だと思いますが、神さまがエジプトから出なさいというのでやっとエジプトから逃れてきた、神さまが導かれる約束の地カナンを目指して出発したのに、目の前は紅海、後ろからはエジプト軍が追いかけてくる、そのような絶体絶命な状況で神さまはどのようにしてくださったか。信じられないようなことですが、海を2つに分けて、そこを通り抜けることができる道をひらいてくださったのです。苦しいことや試練に合わないようにする、ということではなくて、どんな状況になったとしても、「神さま、どうしてですか、どうして私がこんな目に合わないといけないんですか!」と叫びたくなるようなことがあったとしても、神さまは共にいてそこを通り抜けることができるように助けてくださる、力を与えてくださる、守ってくださる、ということ、これが神さまのお約束です。「問題や困難に遭わないようにしてくださる」ということではなくて、たとえ何かあったとしても、それを乗り越えていけるように助けてくださる、力を与えてくださる、守ってくださる、ということです。
私には3人子どもがおりますが、事情があって3人とも帝王切開での出産でした。3人目の手術の時に予想外のことが起こりました。前にも子宮を切っているため、薄くなっているところが陣痛が来たら破裂してしまう危険があるということで、予定日より早く、陣痛がくるより前に手術をするわけですが、予定に合わせて入院している間になんと陣痛が始まってしまったのです。それで、ものすごいスピードで緊急手術が始まりました。破裂したら母子共に命に関わることだからです。私は何人がかりでどうなってるの?という速さでオペの準備をされて手術室に運ばれて行きました。家族は病院に呼ばれたんですが間に合わなかった、到着した時にはもうオペ室に運ばれた後だったそうです。
お腹を切って、開けて、赤ちゃんを取り出すというのはそんなに複雑なことではなかったはずですが、なぜかお腹の中で赤ちゃんがぐるぐる動き回って、なかなか取り出すことができなかったようです。手術室の中はいろんな人の叫び声が飛び交ってもう修羅場でした。最終的には、お腹を切っているのに、吸引分娩と言って機械で引っ張り出されてやっとのことで生まれてきたのが3人目の長男です。
それで、生まれてはきたんだけれども、呼吸の状態がよくないということで、同じ総合病院の中ですが小児科病棟に彼は連れていかれてそちらで入院、ということになりました。呼吸の管理をしてしばらく保育器に入れられていました。
その夜、私は手術の後の傷の痛みに耐えながら、「どうしてこんなことになったんだろう」と考え、お医者さんのことばが頭の中をぐるぐる回っていました。小児科のドクターは、「3回も帝王切開するからですよ。お母さんのためには傷は最小限がいいに決まっているけど、それが赤ちゃんには負担だったんです」と言われました。私のために子どもにつらい思いをさせてしまったのだろうか、これからどうなるんだろう、この子は元気に大きくなれるんだろうか。そんなことを考えていた時に、深く静かに、主が私の心に語りかけてくださったのです。耳で聴いたのではなくて心に、「わたしもそこにいたよ」と。
「私もそこにいた。あの医師やスタッフの叫び声が飛び交う 修羅場の手術室に、私も確かにいたのだ。 生まれる瞬間も、私はそこにいた。 あの子が生まれる前から、私はあの子と共にいた。 私があの子の神なのだから」 有名な詩篇23篇4節に「たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私と共におられますから」ということばがあります。誰も一緒にはいかれない、たった1人で暗い寂しいところを行かなければならない、そんな風に思える時にも主はそこを共に歩んでくださる、というのです。「主が共に歩んでくださる」その確信に立って生涯歩むことができるように、という祈りをこめて、息子に主歩(かずほ)という名前をつけたのでした。
Ⅲ.むすび
神さまが約束してくださっているのは、「私はあなたと共にいる」ということです。たとえそう思えなくても、感じられなくても、いろんなことにぶつかって挫けそうになったとしても、ぜひこの約束を思い出してほしいのです。
私たちは実は、どん底と思えるようなところで、本当の意味で神さまに出会うことができるのです。神さま、どうしてですか、と叫びたくなるような時、そういう時に実は神さまは私たちのすぐ近くにいてくださる。そして神さまがどのようなお方なのか、ということがわかるようにしてくださる。神さまは遠くで腕組みをして高いところから私たちを見下ろしているような方ではない。神さまを恨んでも神様に文句を言ってもいいんです。それは神さまとの関係を絶ってしまうのではなくて持ち続けることだからです。
思い通りにならないことの中で、神さまどうしてこんなことがあるんですか、と思うようなことにぶつかりながら、私たちの信仰は成長して行くのです。
恐れや思い煩いが襲ってきたとき、「恐れるな。わたしはあなたと共にいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを守る」という神さまのお約束を思い起こし、心のうちを正直に申し上げると共に、全能者なる神がいつも共にいてくださることを感謝し、主からの平安をいただいて心と思いを守って頂こうではありませんか。
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ人への手紙4:6-7)
(記:信徒伝道者 小暮敬子)