2025年2月16日 礼拝説教 「比べ合いからの解放」

聖書: ルカの福音書 9章46~50節

Ⅰ.はじめに

 自分と誰かを比べて劣等感をもったり、優越感にひたったりしたことは、誰でもあるのではないでしょうか。私は小学生の頃、背が低く、やせて細くて、それだけで劣等感をもっていたように思います。おまけに走るのがおそく、体育が苦手で、鉄棒のさかあがりやうしろへのでんぐり返しができませんでした。だから、国語や算数のテストでいい点をとろうとしましたができず、上には上がいて、劣等感からなかなか抜け出せませんでした。

 さきほど「つゆだにいさおのあらぬ身をも」と讃美歌で歌いました。「よい所がまったくないような自分でさえも」という意味でしょうか。そんな自分さえもイエス様は受け入れてくださって御国の世継ぎ、天国の国民としてくださったと歌われています。感謝ですね。

 この教会の礼拝では2017年5月から『聖書』の「ルカの福音書」を少しずつお聴きしております。今日はずいぶん久しぶりになりますが、昨年の8月18日の続きの所です。

 イエス様の弟子は12人。12人の人間関係の中で悩み、比べ合っていたようです。『聖書』のことばにともにお聴きし、自分との関わりを思い巡らしましょう。

Ⅱ.みことば

1.弟子たちの比べ合いとイエス様(ルカの福音書 9章46~48)

 「弟子たち」と一言で言いますが、12人はそれぞれが違っていました。背の高さも出身地も性格も考え方も、それぞれ違っていました。お互いの人間関係で、悩みもあったのではないでしょうか。「あいつとは話が合うが、あいつとはどうも付き合いにくい」というようなこともあったでしょう。この時は、何が話題になったか?46節をお読みします。「だれが一番偉いか」なんて、なぜ話題になったのか。それは、たとえばペテロとヨハネとヤコブだけはイエス様に特別扱いされているように思えた場面(9:28)などがあったからかもしれません。しかも、この議論はたいていイエス様の受難予告のあとにありました(9:44~46、22:22~24)。つまり、イエス様がいなくなったあと、だれが跡継ぎというかリーダーになるかという議論だったのかもしれません。いずれにせよ、弟子たちは自分たちを比べ合ったのです。だれが一番偉いか、と比べ合ったのです。

 この比べ合いをする弟子たちに、イエス様はどうされたか?47節をお読みします。「彼らの心にある考えを知り」とあります。比べ合いをする心の底にある考えとは何でしょうか?それは比べ合って、ほかの人より上に立ちたい、自分が一番になりたいという考えではないでしょうか。また、それは、その人を誰かと比べて決めつけ、その人として認めず、ありのままのその人として受け入れないという考えではないでしょうか。

 そんな弟子たちの前に、イエス様はひとりの子どもを立たせました。48節をお読みします。当時、子どもというのは、小さいし働けないし役に立たないからということで価値のない存在、無力な存在でした。そんな子どもをイエス様は受け入れてくださった。「そんな子どもをイエス様は受け入れたのだから、自分も子どもを受け入れ認めようという人は、わたしを受け入れることになる」とイエス様は言われました。また、「わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方である神様を受け入れるのです」とイエス様は言われました。誰が一番偉いかと言えば、「一番小さい者が、一番偉いのです」。

 イエス様は私たち一人一人を選び、受け入れてくださいました。ヨハネ15:16を読みましょう。イエス様に受け入れられていることを覚え、比べ合うことから解放されましょう。

2.自己正当化とイエス様(ルカの福音書 9章49~50節)

 つづいて弟子のヨハネが言ったことはこうです。49節をお読みします。ヨハネはおそらく、先ほどイエス様が言われた「わたしの名」ということばに反応し、少し反発を感じながら、「このように対応したのは正しかったですよね?」と言ったのだろうと思います。というのは、ヨハネは「雷の子」というニックネームをつけられており(マルコ3:17)、怒りやすい性格で、おそらくカチンときて、自分がしたことは正しいはずだと自己正当化したかったのではないかと想像するからです。

 ヨハネがしたことは、イエス様の名によって悪霊を追い出している人を見たが、自分たちにはついて来なかったから、やめさせようとしたことです。「これは正しかったですよね?」と言いたそうなヨハネに、イエス様はどう言われたか?50節をお読みします。「やめさせてはいけない。反対しない人は味方だ」と言われたのでした。しかも、「大事なのは、自分たちについてくるか否かよりも、わたしの名を使っているか否かだ」とイエス様は言いたかったのではないでしょうか。

 自分だけが正しいはずだと自己正当化をして、心をかたくし、心を狭くするのではなく、何が一番大事か、それを見極めることができる、やわらかな、教えられやすい心がヨハネに求められたのであり、今の私たちにも求められているのではないでしょうか。

 そのためにも、誰が一番偉いか、とか、誰が一番正しいか、とか、誰が一番上手か、とか、誰が一番かしこいか、など、誰かと自分を比べ合うことから解放され、自分を自分として受け入れ、ほかの人をその人として受け入れる、小さく、低く、心の広い寛容な者とされたいものです。

Ⅲ.むすび

 イエス様は偉くなることや向上心というものを否定したのではないだろうと思います。よりすぐれた人になろうとする向上心はよいものです。そして、本当にすぐれた人というのは、誰かとの比較をせずに、ほんとうに謙遜な人が多いように思うのです。 このあと讃美歌502番を歌います。その3節に「あるに甲斐なきわれをも召し」という歌詞があります。「自分の存在の価値や意味がないように思える、こんな私をも選び受け入れてくださった」という意味になるでしょうか。イエス様は私たちひとりひとりを受け入れていてくださる。私たちの身代わりとして十字架にまでかけられて、その尊いいのちをおささげくださるほどに、私たちを「価値あり!」と認め、受け入れていてくださる。そのイエス様が小さい子どもの手をとってご自分のそばに立たせ、言われたことばを思い巡らしましょう。イエス様に無条件で受け入れられていることを覚えつつ、当時は無力で無価値と思われていた子どもをイエス様の名のゆえに受け入れる心、他の人を受け入れる低くされた心、へりくだった心を神様に求めましょう。それは、イエス様が人々に仕えたように、私たちもイエス様と人々とに仕えることにつながる心です。

(記:牧師 小暮智久)