2025年1月19日 礼拝説教 「私を用いてください」

聖書: イザヤ書6:1-8

Ⅰ.はじめに

 今朝はイザヤという旧約聖書の預言者を神さまがどのようにお取り扱いくださったのか、というところから、今の私たちに神さまが願っておられる、求めておられるのはどういうことだろうか、ということについて、ご一緒に教えられたいと願っています。

みことば

 このイザヤ6:1は「ウジヤ王が死んだ年に」と始まっています。聖書は、特に旧約聖書は必ずしも歴史順、出来事順に書物が並んでいるわけではないのがややこしいところで、私もあまり得意ではないのですが、教会学校の生徒になったつもりで少しだけ、基本的なことを確認したいと思います。
 イスラエルの国にサウル、ダビデ、ソロモンと有名な王が続いた後、国が2つに分かれてしまいます。北イスラエル王国と南ユダ王国、それぞれに別の王が立てられ、それぞれに預言者が神さまから遣わされました。後に北イスラエル王国はアッシリアに、南ユダ王国はバビロニアという当時の大国に攻め込まれてそれぞれ「捕囚」と言いますが、わずかながらイスラエルに残った人もありましたけれども多くが連れて行かれてしまったのです。北イスラエル王国はそれきり散り散りになってしまい、国としてはなくなってしまいました。南ユダ王国の人たちがやがて戻ってきて、荒れ果てた土地で苦労をして神殿や城壁を再建し、そしてローマ帝国の支配下にある時代にイエスさまがお生まれになった、というふうに新約聖書の時代へとつながっていくことになります。
 今日のイザヤは、南王国のユダに遣わされた預言者でした。2つの国に何代もの王が立てられましたけれども、真の神に従い、国民のためによい政治を行う王もあれば、徹底的に神さまに叛逆し、あるいは積極的に偶像に仕え、酷く国民を苦しめる悪い王もありました。今日のこの箇所のウジヤという王は比較的良い王さまだったと言われていますが、その王が死んでしまった。紀元前740年頃と言われていますが、国自体近隣の他の国々からの圧力で不安定な状態になっていましたし、民は不安の中にいました。そのような中でこの国に遣わされたイザヤは、神殿で神との出会いを経験したのです。
 黙示録に出てくるような記述というか、不思議な経験ですが、1-4節を読ませていただきます。神を見るという出会いでありました。1、4節を見るとそこには生きておられる神の臨在がみなぎっており、3節には「栄光の主」をみています。さらに、超越しておられる聖なる神をみています。5節には「万軍の主である王」を見たというのであります。
 「主を見た」イザヤはどうしたでしょうか。イザヤの第一声は5節「ああ。私は滅んでしまう」もうだめだ、ということでした。神さまをみる、出会う、どのようなお方なのかということがわかると、自分自身が見えてくる、この聖なる神さまの前に、いかに自分が罪と汚れに満ちたものであるか、ということがはっきりわかる、ということです。自分自身もだけれども、これまでもしかしたら預言者として人々に対して嘆き、怒り、失望して裁きのメッセージを語ってきたかもしれません。悪人の中にいると自分はまだマシな方だと思うものかもしれませんが、イザヤは聖なる神さまの前に、その圧倒的な臨在のもと、人を裁くどころではない、この私が罪人であり、何一つ誇れるものはない、もう駄目だ、私は死ぬしかない、他でもないこの私が神の前に罪を犯すイスラエル共同体の一人なのだ、と気付かされたのです。

 「すると」6節から、神さまの側の一方的な救いの業が起こります。セラフィムの手には火ばさみで取った祭壇の燃え盛る火のついた炭火がありました。神殿の祭壇では何千頭ものいけにえがささげられ、血が流されたことによってできた贖いの炭火を、セラフィムはイザヤの唇に当てます。そして7節「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された」 赦しの宣言でした。イザヤはどのような思いでそれを聞いたでしょうか。自分が罪人である事実。「もう駄目だ」と自己崩壊した者が、神さまの前で罪のない者とされたのです。もう死ぬと言ったイザヤが生き返ったかのようです。

 そしてさらにイザヤは驚くべき神ご自身の声を聞きました。8節「だれを、わたしは遣わそう。だれがわれわれのために行くだろうか」それはイザヤの過去の罪を責める声でもなく、ユダに対する怒りのメッセージでもありませんでした。神さまご自身が妬むほどに愛しておられるイスラエルの民に、大切な神さまのメッセージをだれが伝えて届けてくれるだろうか、という神さまの声です。私たち人間は、例えば1度失敗した人に、大切な仕事を任せようとはなかなか思えません。失った信頼を取り戻すということはなかなかできないということをよく知っています。けれども神さまは、信頼してくださるのです。自分の罪を痛いほどに自覚し、それを一方的なあわれみのゆえに赦された者を、神は信頼して神さまの最も大切な神の民を任せたいと言われるのです。

 イザヤは、赦しと同時に神様からの召しを受けました。イザヤは即座に「ここに私がおります。私を遣わしてください」と応えています。この言葉は、決して自分に自信があるから言ったのではない。「こんな罪人の私を救ってくださった。この神さまが、こんな者を用いてくださるなら、どうぞお使いください」と、信仰によって応答したのです。また神さまは、強制的にことをなさるのではなく、呼びかけに信仰を持って応答する者を用いて、ご自身の御業をなされるのです。

 さて、これはイザヤの召命の出来事です。今日、私たちは、自分に与えられた救いの事実から、どのように主の召しに生きるように導かれているでしょうか。
 イザヤが主の招きに応えた後に9節以降に神さまが語られたことは、理不尽というか衝撃的なことばであり、決して希望に満ちたものではありませんでした。神さまに召され遣わされた者、イザヤが語っても、喜んで人々が神さまに従うようになるということではなく、むしろ心が頑なになり、またやがて町々は崩れ去り、国も滅びてしまう、あまりにも酷い状況がイザヤを待っていたのです。

 年が明けてから、なぜか私の心にずっと響いてくる賛美があります。ある時は本当に一晩中頭の中に流れていたように思ったことがありました。讃美歌や新聖歌にある曲ではないので、歌詞だけをちょっとご紹介したいと思います。

 この世界の痛みとさけび 全て知っておられる主の声を聞いた
 だれを遣わそう だれが私のために行くのだろう
 いつかもっと素晴らしい人に なれたその時ならと思っていたけど
 何もいらない そのままでいい 主が共にいるから

 今あなたの前に進む 私はとても小さいけれども
 あなたの愛と力によって私を用いてください (作:若林栄子)

 私の心に響いてくるのは、2つあります。
 1つは、神さまはこの世界の痛みと叫びを全て知っておられる、ということ。そのお方が、私たちの世界の痛みと叫びの癒しのために誰かを遣わしたいと願っておられるということです。
 もう1つは、「いつかもっと素晴らしい人になれたその時ならと思っていたけど」ということばです。

 私たちの多くは、私にできることなんて何もないだろう、と思っているのではないでしょうか。年をとっている、壊したくない人間関係がある、そんな神さまに遣わされるだなんて、私には能力もなにもない。私自身もそう思います。誰か他にもっといるでしょ、と。
 けれども、この世界の叫びをよくご存知の神さまは、私たち一人一人の現実もよくご存知です。何ができて、何ができないか、そんなことは本人よりも神さまの方がよくわかっていらっしゃるかもしれません。

 私たちはイザヤになることを求められているわけではありません。また何万もの人々のリーダーとしてエジプトからカナンの地を目指したモーセになることも、巨大なゴリアテと闘ったダビデになることも、私たちには求められていない、そんな必要はないのです。

 今日開いたイザヤ書のみことばは、献身の招きの時に開かれる、あるいはこのみことばを与えられて牧師や宣教師になる決心をした、という方はたくさんいらっしゃると思います。
 神さまは、私たち一人一人を通して働きたいと願っておられます。特別な人を特別に用いられるということは確かにあります。でも皆が牧師や宣教師になるわけではありません。
 「遣わす」というと、何か遠いところへ、今いるところを離れて行かなければならないように思えますけれども、必ずしもそうではありません。あなたが今いるところが、主があなたを遣わしてくださった場所。あなたでなければ届くことのできない人があなたの周りにおられるのではないでしょうか。

 また、遣わされるとは、必ずしもみことばを語る、伝道するということだけを意味しているのではありません。私たちにできること、直接聖書のことばを誰かに語る、福音を伝えるということはハードルが高いように思われるかもしれませんが、もしかしたらたくさんいただいたリンゴを誰かにお裾分けすることかもしれない、誰かの話を聞くことかもしれない、一緒にお茶を飲む、出かけてはいけないけれども電話で様子を聞く、手紙を書くことを通して、神さまの愛を間接的かもしれないけれど、お届けすることができるかもしれません。
 マザーテレサは、「できることをしなさい。もし100人に食べさせることができないなら、1人だけでも食べさせなさい」ということばを残しています。
 能登の復興も思うように進んでいないようですし、世界で戦争が起こっても私たちには止めることもできません。世界は痛み、傷つき、叫んでいます。でもできないから諦めて何もしない、ということではなく、まず手の届くところから、できることをしてみる、ということです。
 イエスさまに5つのパンと2匹の魚を差し出した少年がいましたけれども、男性だけで5000人という人数の前に、何の足しにもならないような量でした。でもそれをイエスさまのところに持っていった時に、素晴らしいことが起こりました。5000人以上の人が満腹になって余ったパンを集めたら12のカゴいっぱいになったというのです。明らかに最初より増えている。
 イエスさまも、小さなことに忠実な人には大きなことも任せられる、とおっしゃいました。こんなことは無理、と思ってもあなたがその手を、その思いを神さまに委ねるなら、そのあなたの決断を通して神さまがご自身の働きを進められるのです。

むすび

 「いつかもっと素晴らしい人になれたその時なら」というのは、ただ待っていても自動的にはやってきません。今もう私にはできることは何もないと思うかもしれない、でも、一歩進んで、この新しい年、私を通して神さまが働いてくださるように、「神さま、私を用いてください」とまずお祈りしてみませんか。無理なことを神さまは私たちにさせようとはなさらない、自分で自分のことを決めつけてしまわないで、握りしめてしまわないで、自分自身をそのまま神さまの前に差し出して、神さま、私にできることをさせてください、あなたのために、痛み傷つき叫んでいるこの世界のために、どうか私を用いてください、そう祈るなら神さまが導いてくださり、そこから私たち自身が多くの恵みや力を受けるのです。主は、あなたを必要としておられるのです。「私を遣わしてください」とまで言えなかったとしても、「ここに私がおります。私を用いてください」そう祈りつつ、できることをさせていただくそのような歩みをさせていただきましょう。

(記:信徒伝道者 小暮敬子)