2024年12月29日 礼拝説教 「私を知ってください」
聖書: 詩篇139篇1〜24節
Ⅰ.はじめに
2024年最後の日曜日を迎えました。
1年の最後の礼拝にどのみことばを、としばらく思い巡らしておりましたが、今朝は詩篇139篇全体を朗読していただきました。この詩篇139篇はちょうど6節ずつ、全体を4つに分けることができます。
最初の1-6節は、神の全知「神は全てを知っておられる」ということ、
②7-12節 遍在「どこにでもおられる」ということ
③13-18節 創造「神がお造りになった」ということ
④19-24節 神の救い について書かれています。
Ⅱ.みことば
「神の全知」
1節には「主よ。あなたは私を探り、知っておられます」とありますが、神さまは私たちのことをどのように知っておられるのでしょうか。「探り」と書かれていますから、表面だけを見ておられるというのではなくてあらゆる面から私たちのことを良く知っておられるのだ、というのです。
2節「座るのも立つのも」3節「歩くのも伏すのも」とありますけれども、座ってものを考えている時も、立って忙しく働いている時も、また日中起きて活動している時も、夜床について眠っている時も、その全てを知っておられるというのです。しかもまだ実現していないこと、2節には「私の思いを読み取られる」とありますし、4節「言葉が私の舌にのぼる前になんと主よ、あなたはその全てを知っておられます」とある通りです。私たちは、言葉で言い表されたこと、目に見える形で表現されたことでしか人の思いを知ることはできませんが、神さまは私たちの心の奥底までも読み取り、知っていらっしゃる、神さまは私たちを完全に知り尽くしておられるのです。
「偏在」
7節からは「神はどこにでもおられる」ということが書かれています。私たちはその存在から逃れることはできない、隠れることはできない、天に上ってもよみに床を設けても、この世界の上から下までどこにいても、神はそこにおられる。同じように、東に行っても西に行っても、北に逃れても南に隠れても、そこに神はおられると聖書は語っています。闇に紛れるということもできません。12節「あなたにとっては、闇も暗くなく、夜は昼のように明るいのです。暗闇も光も同じことです」
「神の創造」
13節からは神の創造が語られます。生まれる前から神さまは私をご覧になっておられた、お母さんのお腹の中で、もしかしたらお母さん自身もその胎児の存在に気がついていない時からすでに神さまはそこにおられた、神さまが母の胎内で私の内臓を造り、私を組み立てられた方なのだ、というのです。しかも、身体を造られたというだけではなくて命を与えてくださった、人生を与えてくださったのです。おぎゃあ、と生まれる前、命の始まりの瞬間から神さまはそこにおられて私を見守っていてくださったお方なのです。
神さまに知られているということは、あなたにとって恐ろしいことでしょうか。それとも慰めや励ましでしょうか。
私たちは矛盾を抱えています。自分をわかってほしい、理解されたい、受け入れられたい、そう思うその一方で、でも本当の自分の姿を、あるいは心の中で思っていること、頭で考えていることを誰かに知られたら、嫌われてしまうかもしれない、受け入れられない、拒絶されるのではないかという恐れも持っています。本当の自分を出したら結局自分が傷つくようなことになるんじゃないだろうか。
この139篇のキーワードは「知る」ということです。単に知識としてということではなく、愛を持って関わる人格的なものです。私がどう思うかということによらず、神は知っておられるということは聖書の言う事実です。自分という存在が神によってすべて知られているという事実、神の前に隠れることができないという事実、どこにでも神は遍在し、私の行くところどこにでもおられるという事実、私がこの世に存在する前から神のみこころは存在して書き記されているという事実、このようにして神は私と深くかかわってくださるという事実に、この詩篇の作者は感動と驚きを表明しています。
それなのに、これだけ、「あなたは私を探り、知っておられる」と言っているのに、なぜ23節では「私を知ってください」と祈るのでしょうか?
「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください」と、なぜこのようにいうのだと思われますか?
私は自分の信条として「完璧であろうとするよりも、誠実に、正直であることの方が大事」と言う言葉を大切に心に刻んでいるのですけれども、私たちは自分のことは自分が一番よくわかっていると思っています。でも果たして本当にそうでしょうか?本当の自分の姿を知ると言うのは実はとても痛い経験、難しいことかもしれません。
私たちは人の前には自分自身を取り繕うことはある程度できると思います。自分の罪や醜い面を隠そうとします。たとえ傷があっても、痛くもなんともないかのように振る舞うこともできるかもしれません。けれども、上手に隠している間に自分でも何が本当の自分なのかわからなくなってしまう。他の人に対してだけではなく、実は自分自身に対しても嘘をつき、欺いているようなことがあるのではないでしょうか。
「ことばが私の舌にのぼる前に なんと主よ あなたはそのすべてを知っておられます」と3節に書かれていますから、祈らなくたって、私の思いや願いがなんなのか、神さまどうせ知ってるんでしょ?と言いたくなることもあるかもしれませんが、神さまはあなたの口からあなたの言葉を聞きたいのです。それは聞かないとわからないから、と言うことではありません。
私を探り、私の心を知ってくださいというのは、「信頼して、自分を開いて、あなたにすべてお任せします」という信仰の告白なのです。
全てを知られている平安、全てをお任せできる安心、信頼、知られて困ることは何もない、知られても拒まれることも私を嫌いになることも見捨てられることもない。
今、あなたは何を神さまに知っていただきたいでしょうか。
全てをご存知の主に、私の方から、自分自身を明け渡していく必要があります。
傷のついた道というのは、「痛み、悲しみ、傷、悪いこと、不義、よこしま、不信」など、神さまの喜ばれないことです。
傷も痛みも思い煩いも、そのまま神さまの前に差し出すのです。傷があることに気がついたなら癒してくださいとお願いすることができます。神さまが私たちを知っていてくださるから、私たちも自分の本当の姿を知ることができるようになります。私たちが自分自身を神さまの前に、信頼を持っておまかせするなら、思い煩いは平安に、心の傷は癒される。神は私たちを救い、癒し、きよめ、祝福し、とこしえの道に導いてくださる。それが神さまのお約束です。とこしえの道とは、悪しき道でも傷のついた道でもない、命と平和に導く道、神さまと共に歩む道、永遠のいのちに至る道です。
私たちが自分を神に知っていただこうとする時、神さまもまた私たちに神ご自身を示してくださいます。どのようなお方であるか、わかるようにしてくださる。
神さまに知られ、神さまを知る、という関係に導かれるようになります。自分のことを神さまに知られたくないと思っている人は、決して神さまを知ることはできないのかもしれません。
Ⅲ.むすび
この1年、嬉しいこともあった、また喜べないこともあったでしょう。けれどもそのどの瞬間にも、そこに神が共にいてくださったことを覚えましょう。
何を神さまに知っていただきたいか、私たちは何も恐れる必要はありません。自分を開いて神さまに明け渡しお任せしてこの1年を振り返り、感謝すると共に、探っていただき、傷を癒していただき、新しい年も主と共に歩ませていただきましょう。
(記:信徒伝道者 小暮敬子)