2024年11月24日 礼拝説教 「目を離さない」

聖書: ヘブル人への手紙 1章1〜2節

Ⅰ.はじめに

 今年も早いもので残すところあと一ヶ月あまりとなりました。来週からアドベント、クリスマスまでの4週間をさまざまな準備をして待ち望む期間を過ごすことになります。
 言うまでもなく、クリスマスはイエスさまのお誕生をお祝いする時でありますけれども、ほぼ全世界でその誕生が祝われているというのはこのイエスさま以外にはないのではないかと思います。
 今朝はヘブル人への手紙12章の最初のところを開いています。
 特に2節は有名な言葉ですが、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」口語訳聖書では、「イエスをあおぎみつつ走ろうではないか」と訳されていたと思いますが、このことは今私たちが生きていく毎日とどのように関係があるのか、ということをこの箇所からご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.みことば

 12:1は「こういうわけで、」と始まっていますが、どういうわけかということはその前の11章と関係があります。「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐を持って走り続けようではありませんか」という私たちに対するおすすめの言葉が1節に書かれています。11章全部を一つ一つ詳しく見ることはできませんが、旧約聖書に書かれている人々が、困難に直面した時にも「信仰によって」どのように歩んだか、ということがこのヘブル11章に書かれています。「信仰によって〇〇は」と繰り返し語られていますが、決してハッピーエンドの話ばかりではありませんでした。39節には約束のものを手に入れることはなかったと書かれていますし、11:13「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て、喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました」
 日本ではクリスチャンというのはまだまだ少数で、周りにほとんどいない、職場でも家族の中でも自分1人だけ、という方もあるかもしれませんが、何千年という時代を超えて、非常に多くの信仰によって歩んだ方々がおられる、その方々の生涯には辛いことも困難なこともあったかもしれないけれども、その中でどのように神さまが助け導いてくださったのか、どうやってそれを乗り越えていったのか、今も私たちに「信仰によって生きた人生」とはどういうものか、ということを示してくれている、その証人が雲のように私たちを取り巻いている。信仰の先輩方がそのように忍耐を持って信仰の生涯を歩んだように、私たちも自分の前に置かれている競争を忍耐を持って走り続けよう、と私たちに呼びかけているのです。

 ここで競争という言葉が使われていますけれども、聖書の中でクリスチャンの人生や生活を、マラソンや競争に例えることがあります。でもそれは、いかにして他の人より早くゴールするか、1番になるか、ということではなく、走り抜くこと、途中で棄権したり離脱したりコースを外れたりしないで、いかに最後まで、ゴールまで到着するか、ということが大切なのではないかと思います。そのためには、足元にまとわりつくもの、重荷を捨てなければならない、他の訳では「かなぐり捨てて」と書かれていたと思いますが、私たちの信仰生活の妨げになるようなもの、罪、不信仰を取り除かなければゴールまで行き着くことができない、ということですね。アスリートと言われる人たちは、その競技のために自分の身体を鍛えると共に、身につけるユニフォームや靴等もおそらく吟味しているのだと思います。私たち信仰者も、ゴールを目指すために、自分の大切な歩みを妨げるもの、不必要に背負っているものが何かあるだろうか、取り除かれなければならないものは何か、余計なものを握り締めてはいないだろうか、ということを考えてみる必要があるのではないでしょうか。

 そして2節に続きます。
 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」
私たちの信仰の歩み、進むべき道のりを進むためには、イエスさまから目を離さないでいなさい、というのです。目を離さない、ずっとみ続ける。そうは言っても実際目には見えないお方ですし、拝むべき何かがあるわけでもありません。目を離さないとはどういうことなのでしょうか?

 マタイの福音書14章に、ペテロというイエスさまの弟子が湖の上を歩いたという不思議な出来事が書かれています。イエスさまの弟子たちがガリラヤ湖を船で向こう岸へ渡ろうとしていたのですが、向かい風が強くてなかなか進むことができませんでした。そんな中、イエスさまが湖の上を歩いて弟子たちのところに近づいてきた、というのです。初めはそれがイエスさまだとはわからなかったので幽霊かと思って叫び声を上げた弟子たちでしたが、イエスさまだとわかるとペテロが「主よ、あなたでしたら、私に命じて水の上を歩いてあなたのところにいかせてください」と言ったのです。ペテロは船から身を乗り出して恐る恐るイエスさまの方へ、水の上を歩き出しました。しばらくはよかった、それができたんですが、風や波を見て怖くなり、沈みかけてしまいました。もちろんイエスさまは助けてくださったのですけれども、ペテロはイエスさまを見つめている間は問題なく、ちょっと信じ難いことではありますけれども、水の上を歩くことができました。でもイエスさまではなくて現実の風や波を見た時に、進むことができなくなって沈んでしまった。私たちにもそういうことはあるのではないでしょうか。私たちが何かつらいことや問題にぶつかった時、それで心がいっぱいになってしまう、イエスさまよりも、自分の問題や課題に目を向けがちです。現実の問題は問題として、真剣に取り組まなければならない、解決方法を考えなければならないのですから、現実逃避のように見ないようにする、ということではありません。不安や恐れが心にあるかもしれません。けれども、私たちの目をそうした不安にだけ向けるのではなく、イエスさまを仰ぎみる。病気や問題や不安に引きずられてしまうのではなくてイエスさまに心を向ける、イエスさまはどのようにしてこの中から私を助け出してくださるだろうか、イエスさまはどのように解決してくださるだろうか、イエスさまをあおぎ見る方を選び取るのです。

 私たちがあおぎ見るべきイエスさまはどのようなお方でしょうか。
2節の後半にはこのように書かれています。「この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです」イエスさまは、私たちの信仰の創始者であり完成者。私たちの信仰を導いてくださり、イエスさまを救い主と信じる信仰へと招き入れてくださった方。そして私たちの人生の旅路をずっと共に歩んでくださる方。そしてやがての日にゴールへと導いてくださる、完成させてくださるお方。このイエスさまの地上での生涯は、ある意味では理不尽極まりない、何の罪もないのに犯罪人として十字架で処刑されるという苦しみを通られました。それでも神さまの御心に従うことを選び取った、貫いた生涯でした。イエスさまご自身も、ただひたすら父なる神さまを見上げ、父なる神さまの御心に従って歩まれたご生涯でした。

 不信仰というのは、信仰が足りないということではありません。不信仰とは、主をあおがない、自分の力、自分の判断、自分の知恵を信じることです。つまり、イエスさまを頼らず自分を頼り、イエスさまではなく、自分を神として生きることになります。
 不信仰とは、自分の人生の全主導権を自分が堅く握って生きることです。
 不信仰とは、自分のための神であり、自分がより良く生きるための神、あくまでも中心が自分にあるわけです。見ているのは実はイエスさまではなく、いつも自分自身。
 不信仰とは、信仰の量の不足のように思いますが、イエスさまを仰がず、イエスさまに頼らないことです。
 逆に、信仰とは、自分の思いを捨てて、イエスさまの判断、知恵、イエスさまの心を求めて生きることです。イエスさまから目を離さずに、イエスさまをあおいで生きていくとき、私たちは自分の損得ではなく、主の御心を求めるように少しずつ変えられていきます。

 残念ながら、イエスさまを信じたら問題も試練も何もないバラ色の人生を送ることができる、とは聖書は約束してはいません。けれども、この信仰の創始者であり完成者であるイエスさまを仰ぎ見て、目を離さないで生きる生き方、すなわちこのイエスさまと共に生きるなら、私たちの考えをはるかに超えたことを神さまはしてくださいます。嵐の中で沈みかけるような時にも手を差し伸べて助け出してくださる。目の前は行き止まり、後ろからは敵が追いかけてくる絶体絶命と思われるような状況で、目の前の海を2つに分けて陸地を進んでいくことができるように神さまはそのようにしてイスラエルの民を助けてくださった。なぜなら、神さまは私たちを愛しておられるからです。大切な存在として、高価で尊い、わたしはあなたを愛している、と呼びかけてくださっています。私たちが自分で自分のことをどのように思ったとしても、どんなに情けない何もできない価値がないもののように思えたとしても、イエスさまはそうではない。いつも共にいて、愛し、必ず道を開き助けてくださるお方です。今はそうは思えなかったとしても。
 イエスさまから目を離さない、というのはイエスさまの愛から離れない、イエスさまの愛の中にとどまり続けるということができるかもしれません。

 この後、「主は今生きておられる」という新聖歌をご一緒に賛美いたします。これはもともと英語の歌詞でいくつか日本語の訳がありますが、今年の4月に行われたスプリングコンサートの中で、アカペラで賛美された時の歌詞をご紹介したいと思います。英語のタイトルは「Because He lives 」直訳するとイエスがいるから、今生きておられるので、という意味です。

 神は人を愛されて そのひとりごをこの世に送り
 私たちの罪のために 十字架につけてくださった

 イエスは死んで墓に葬られ 3日の後に蘇られた
 救い主は今も生きている あなたへの愛を示すため

 イエスがいるから 明日はこわくない
 イエスがいるから 恐れは消え
 イエスがいるから 人生はすばらしい
 彼に全てをゆだねた今は

Ⅲ.むすび

 イエスさまは、あなたから目を離すことはありません。詩篇121篇には「あなたを守る方はまどろむこともなく、眠ることもない」と約束されています。世の終わりまで、いつもあなたと共にいる、とマタイ28:20に書かれています。どんなに目の前の問題が巨大に見えてしまうような時にも、イエスさまに目も心も向けましょう。そして問題を握りしめている自分を、イエスさまに明け渡すことができるように祈りましょう。そうすると、主が働かれるのです。
 神さまの右に着座されたイエスさまは、私たちのために取りなしをしていてくださいます。私たちが走るべき道のりを走り、ゴールするまで応援していてくださるのです。
 イエスさまは2000年前に死んでしまった人ではない。また神さまは腕組みをして上の方から私たちを見下ろして私たちの失敗や足りないところ、欠点を減点方式でチェックしているようなお方ではないんです。イエスさまがいてくださる、今も生きて私と共にいてくださる、だから何もこわくはない、今日も明日も、イエスさまに全てをゆだねて安心していることができる。イエスさまが保証し、私たちの信仰の歩みを導いてくださる。だから私たちはこのイエスさまをみ続けていなければならないのです。
 信仰の創始者であり、完成者であるイエスさまから目を離さないで、しっかりとあおぎみつつ今週も歩ませていただきましょう。

(記:信徒伝道者 小暮敬子)