2024年7月21日 礼拝説教 「いのちのパン」

聖書: ヨハネの福音書 6章1~15節、35節

Ⅰ.はじめに

 学校の行事などで外に出かけてカレーなどを作ったり、家族や友だちと外でバーベキューをしたことがあるでしょうか?外でみんなで食べると、とてもおいしいですね。でも、人数が予定よりもかなり多くて、材料が足りないことがわかったらどうするでしょうか?みんなで分け合う、とか、足りない分を買い足しに出かけるとか、いろいろ考えますね。それもできないほど、おおぜいの人数だったらどうするでしょうか?

 今日は、子どもと大人の合同礼拝です。合同礼拝では、教会学校の『聖書』の箇所から神様のことばをお聴きしています。教会学校は今、「神の子イエス」という単元で、目標は「主イエスの働きを知り、救い主と信じて従う」です。先ほどお読みいただいた『聖書』の箇所から、イエス様はどんなことを行なったのか、その出来事にはどんな意味があるのか、ともにお聴きしましょう。

Ⅱ.みことば

1.ほんの少しでおおぜいに(ヨハネの福音書 6章1~15節)

 ときは、いまから約2000年前、「すぎこしの祭り」のころ(4節)ですから季節は春です。ところは西アジアのガリラヤ湖という湖の岸辺からのぼった山の上です。おおぜいの人々があつまっていました。その中心におられたのはイエス様。イエス様が病気の人をなおすなどの奇跡を行なうのを見たので、ついて来ていたのでした(1~3節)。

 イエス様は弟子のピリポに聞きます。5節をお読みします。ピリポはどう答えたでしょうか?7節をお読みします。200デナリとは、今で言えば200万円ぐらいです。サンドイッチが一人分500円として4000個。それでも足りないぐらいの人数だったのです。弟子のアンデレはひとりの少年を紹介して報告します。8~9節をお読みします。「5つのパンと2匹のさかなをもっている少年がいます。でも、こんなにおおぜいの人には足りないですよね」と。

 イエス様はどうされたでしょうか?10~11節をお読みします。人数は大人の男の人だけで5000人。女の人や子どももいたでしょうから、1万人~1万5000人ぐらいかもしれません。イエス様は、少年がご自分にまかせてくれたパンを受け取り、感謝のお祈りをささげました(11節)。今の私たちも、食事の前に感謝のお祈りをしているでしょうか?食事の前には、食べ物を与えてくださる神様に、感謝のお祈りをしましょうね。それから、イエス様はパンとさかなを人々に分けて与えられました。それも、「これだけおおぜいだから、今日は少しでがまんしてね」と言わずに「彼らが望むだけ与えられた」(11節)のです。こうして、少年がささげた5つのパンと2匹のさかなは、どんどんふえて、1万人以上の人々はおなかがいっぱいになりました。それはたくさんあまるほど、いっぱいだったのです。12~13節をお読みします。なんと、すごいことでしょう!人々はとっても驚きました。14~15節をお読みします。この日の出来事は、何を意味しているのでしょうか?

2.この出来事の意味(ヨハネの福音書 6章35節)

 イエス様はこのとき、ほんの少しのパンとさかなで、おおぜいの人々のおなかがいっぱいになるようにしてくださいました。この出来事は、何を意味しているのでしょうか?たとえば、バーベキューで人数が予定よりも多くて材料が足りない時にイエス様にお祈りすれば、イエス様はみんなが満腹するようにしてくださるということを意味しているのでしょうか。そういうことではありません。では、何を意味しているのでしょうか?

 この出来事があった次の日、イエス様はご自分について来た人々にこう言われました。35節をお読みします。「わたしがいのちのパンです」。「いのちのパン」とはあまり聞かないことばですね。私たちはパンを食べるとおなかがいっぱいになるだけではなく、元気になります。パンやそのほかの多くの種類の食べ物は、私たちが生きていくために、どうしても必要なものです。「いのちのパン」とはどういう意味でしょうか?それは、からだの必要だけでなく、こころやたましいの必要を満たすパンということです。

 じつは、私たちひとりひとりは、神様によってお母さんのおなかのなかで造られ、生まれて来て、今も神様によって生かされていると、『聖書』は語っています。けれども、イエス様を信じる前は、私たちは、この神様のことを考えず、神様からはなれていました。そんな私たちを、神様とつなぎなおすために、イエス様はこの世界に来てくださったのです。神様とつながって、神様とともに毎日を過ごしていくという、私たちにとっていちばん必要なことをもたらすために、イエス様は来てくださった。パンは私たちが生きるために必要です。イエス様は私たちが生きるためにもっとも必要な、神様とのつながりをもたらすために来てくださった。イエス様はこのあと、私たちひとりひとりのために十字架にかかり、死んでくださることによって、3日目に復活されることによって、神様と私たちがつながる道となってくださいました。だから、「いのちのパン」なのです。

 ですから、ほんの少しのパンでおおぜいの人がおなかいっぱいになった出来事は、イエス様がすべての人のために来られた「いのちのパン」で、イエス様はすべての人が神様とつながるという必要を満たしてくださるお方だということを意味しているのです。

Ⅲ.むすび

 このことは、今の私たちとどんな関係があるのでしょうか?パンはどんなにながめていても、おなかがいっぱいにはなりません。食べると自分の栄養になりますね。それと同じように、イエス様をどんなにながめていても、私たちが神様とつながるという必要は満たされません。イエス様を「いのちのパン」として食べる必要があります。それは、イエス様を、神様が自分のために送ってくださった救い主として信じ、受け入れるということです。まだ、イエス様を信じていない人は、今日、信じ受け入れましょう。また、すでにイエス様を信じ受け入れている人は、神様とつながり神様の子どもとされたことを感謝し、よろこび、たのしみ、毎日、神様のことばである『聖書』を読み、お祈りすることで神様とおなはしし、毎月「聖餐」を受けることで強められましょう。

(記:牧師 小暮智久)