2024年6月30日 礼拝説教 「旅の途上にて」

聖書: 列王記 第1 19章 3~18節

Ⅰ.はじめに

 6月最後の主の日を迎えました。2024年の半分が過ぎようとしています。この半年は私たちにとって、どのような日々だったでしょうか?私たちの毎日にはいろいろなことがあります。それは神様を信じている人も、信じていない人も同じです。神様を信じていればいつでも勝利で、がっかりしたりしんどかったりしないでしょうか。神様を信じていても、あるいは信じているからこそ、しんどい時や疲れる時があることを、『聖書』は告げているのではないでしょうか。神様のおことばである『聖書』に耳を傾けましょう。

Ⅱ.みことば

1.疲れ切るときがある(列王記 第1 19章3~4節)

 3節の「彼」とはエリヤという預言者のことです。ほんの少し前のエリヤは、カルメルという山の上で、人々が作ったバアルという偶像の神に仕える何百人もの預言者と対決しました(18章)。それは、「火をもって答える神こそがまことの神」という対決です。バアルの預言者は朝から昼過ぎまでバアルの名を呼びましたが何の答えもなく、エリヤが主の名を呼ぶとすぐに火がくだり、人々は「主こそ神です」とひれ伏しました。エリヤにとって大きな勝利の経験と言えるでしょう。そこにはイスラエルの王様アハブもいたのです。

 「それ」(3節)とは何か?それは、アハブ王の奥さん、イゼベルという人の激しい怒りとエリヤを殺すという予告です(1~2節)。アハブ王はカルメル山での奇跡を見ても態度を変えず、バアルを熱心に拝む妻にエリヤがしたことを言いつけたのでした。イゼベルが自分を明日までに殺すつもりだと知ってエリヤはどうしたか?「自分のいのちを救うために立ち去った」(3節)。しかも、ベエル・シェバというずっと南の方まで逃げたのでした。なぜ、イゼベルと対決しなかったのか?カルメル山では人々が「主こそ神です」とひれ伏し、アハブ王もそこにいてこれで一件落着と思ったのに、まだ戦いが続くのかというがっかりした気持ちや疲れがあったのではないでしょうか。その疲れはエリヤの祈りにもよく表われています。4節を見ましょう。自分のいのちを救うために逃げたのに、自分の死を願うとは矛盾ですが、疲れ切ると私たちもこうなるかもしれません。何か大きな出来事のあとは注意が必要です。私たちにとってストレスになるのは、大きな問題や病気などのつらいことや悲しいことだけではありません。出世や昇進、結婚や出産などうれしいことや喜びの出来事もストレスの原因になるのだそうです。大きな変化はストレスになり得ます。そして、この時のエリヤのお祈りは、私たちも自分の悲しみや疲れなどをそのまま祈ってよいのだということを示しています。

2.神様の優しさがある(列王記 第1 19章5~7節)

 もうこの先やっていけないと自分の死を願うほどの疲れ、父祖たちと比べて自分はダメだという沈んだ気分を、ことばにしてそのままお祈りしたエリヤを見守っていたお方がおられました。5節を見ましょう。疲れ切ったエリヤに、まず備えられたのは木陰での眠り。エリヤは御使いが自分に触れるのを感じます。そして「起きて食べなさい」という声を聞きます。荒野で、水も食べ物も何もないはずの場所です。6節を見ましょう。「焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺」。誰がどうやって持ってきたのでしょう。「新約聖書」にも似た場面があります。イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれ、3日目に復活されたあと、弟子たちがガリラヤ湖で漁に出て何もとれなかった夜明けのことです。岸に立つ人に「舟の右側に網を」と言われてその通りにすると大漁になった時にイエス様だとわかり、陸に戻ると炭火焼きの魚とパンが用意されていました(ヨハネ21:9)。

 さて、食べて飲み横になったエリヤは、もう一度自分に触れる手を感じます(7節を参照)。食べるのは先ほどの残りというよりは、新しく焼かれたパン菓子ではないでしょうか。神様は、いわばおかわりを用意してくださった。弱く、疲れやすい私たちへの神様の接し方はやさしく細やかです。それほどにやさしく、眠りや食べ物や飲み物を用意してくださった理由は「旅の道のりはまだ長いのだから」(7節)です。疲れ切ってもうダメだと思う時、神様は私たちにも「まだ旅はつづく」、「ゆきづまりではないよ」と言われます。「これからも旅はつづく」。私たちの旅は、神様が共に歩まれる旅です。 

3.神様のまねきがある(列王記 第1 19章8~13節)

 エリヤが歩いて着いた所、それは「神の山ホレブ」(8節)、つまりシナイ山でした。そのほら穴の中でエリヤは主のことばを聞きます。「エリヤよ、ここで何をしているのか」(9節)。私たちが今、こう問われたらどう答えるでしょうか?10節を見ましょう。エリヤの答えは、「自分はこれだけ熱心にやってきましたが、すべてはむだでした。いま残っているのは自分だけですが、命が危ないのです」という内容と言えるのではないしょうか。神の民イスラエルはどうなってしまうのかという、これから先の不安も見えるように思います。

 エリヤのこのお祈りに対して、神様はどう答えたのでしょうか?11~12節が神様のお答えでした。自分のやって来たことはムダに見えるし、自分は孤独だし、自分の人生はもう終わりそうだというエリヤの祈りに対する神様の答えは「主の前に立て」(11節)でした。今の私たちへの神様の答えもまた、「主の前に立て」という招きではないでしょうか。

 また、エリヤにとって、主がそこを通り過ぎたのも神様の答えであり、山々を裂く激しい風、地震、火の中に主はおられず、火のあとにかすかな細い声があったのも神様の答えでした(11~12節)。エリヤはそのかすかな細い声を聞いてどうしたか。13節を見ましょう。ほら穴の外に出て、主の前に立ったのです。そこで何を聞いたか?「エリヤよ、ここで何をしているのか」。今の私たちも同じように問いかけられているのではないでしょうか。私たちが生かされている日々、その旅の途上にて、「主の日」は神様のまねきの日です。イエス様が私たちのために十字架で死なれ、3日目に復活されたことを記念する日曜日は、ともに主の前に立つようにと、神様に招かれている日なのです。

Ⅲ.むすび

 エリヤはこのあと、新しい使命を神様から与えられます(15~17節)。そして、主に仕えるのは自分ひとりだけではなく、7000人も仲間がいることを告げられて(18節)、エリヤは再び神様に仕える働きへと戻って行ったのでした。 神様が今日、ここから私たちをそれぞれの所につかわして果たさせようとする使命は何でしょうか?その旅はつづくのです。しかも、ふだんの私たちがいる所ではイエス様を信じているのが自分だけだとしても、「主の祈り」で「われらの」と祈るように、同じ神様の子どもが仲間としていることを覚えて、神様と共に旅を続けましょう。

(記:牧師 小暮智久)