2024年2月4日 礼拝説教 「主にある交わりとは」
聖書: ヨハネの福音書 17章20~21節
Ⅰ.はじめに
2023年度が残り2か月となりました。この10ヶ月間は、どのような日々だったでしょうか。今年度の私たちの教会のテーマは「キリストのからだである教会」です。サブテーマの最初に「信徒の交わりの充実」ということが挙げられています。「交わり」とは何でしょうか?私たちは毎週の礼拝の「使徒信条」で「聖徒の交わりを信ず」と告白しますが、「聖徒の交わり」とは何でしょうか?イエス様を信じる生活で、礼拝に出ること、聖書を読むこと、お祈りすることなどはわかりやすいですが、「信徒の交わり」というのはわかりにくいのではないでしょうか。というのは、自分ひとりでできることではなく、誰かと関わりをもつことだからです。教会に来る、あいさつをする、誰かに話しかけるのが苦手な人もいるでしょう。話しかけられて嬉しい時もあれば、ひとり静かに過ごしたい時もあります。「信徒の交わり」「主にある交わり」とは何なのでしょうか?なぜ、何のために必要なのでしょうか?今日はイエス様が神様にお祈りされた場面から共にお聴きしましょう。
Ⅱ.みことば
1.「交わり」とは?(ヨハネの福音書 17章20~21節)
ヨハネの福音書17章には、イエス様のお祈りが書かれています。人前で祈るのは苦手でしょうか。弟子のペテロやパウロはどんなお祈りをしたのか、知りたいでしょうか。『聖書』の中にある彼らの手紙には、彼らのお祈りが書かれています。イエス様はどんなお祈りをされたか。それは私たちのお祈りのモデルではないでしょうか。1節をお読みします。
イエス様はこのお祈りの中で「永遠のいのち」にふれています。3節をお読みします。イエス様を信じる人に今与えられている「永遠のいのち」とは不老不死のからだではなく、「神様とイエス様を知ることだ」と言われました。この「知る」とは単に「認める」「わかる」というだけでなく,「交わりをもつ」という親しい関係を意味します。イエス様は父なる神様と親しい交わりをもち,まさに「永遠のいのち」を生きておられたと言えるでしょう。
その「交わり」のあらわれの一つは10節です。「交わり」とは、別々の存在が、この10節のように言えるほどに「交流すること」ではないでしょうか。「共有すること」「分け合うこと」とも言えるかもしれません。食事を共にする、会話を共にすることもそうです。
20節をお読みします。「彼ら」とはイエス様の弟子たちであり、「彼らのことばによってわたしを信じる人々」とは、『聖書』を読んでイエス様を信じた今の私たちのことを言っています。21節をお読みします。大切なことばは「うちに」です。父なる神様とイエス様が互いの「うちに」おられて最も親しい「交わり」をもっておられる。「彼ら(今の私たち)もわたしたち(父なる神とイエス様)のうちにいる」(21節)ように一つとなることをイエス様は祈られました。つまり、私たちが「主を中心とした交わり」をもつことをイエス様は願っておられるのです。具体的には「ともに礼拝する」「ともに聖書を読む」「ともに祈る」「主を中心に語り合う」ことなどが「主にある交わり」と言えるのではないでしょうか。
2.「交わり」の原点(ヨハネの福音書 17章21節)
「すべての人を一つにしてください」(21節)というイエス様のお祈りは、「わたしを信じる人々」(20節)の交わりが深められるようにという願いでしょう。その「交わり」の原点とは何か?それは、「ように」ということばの前に書かれている父なる神様とイエス様との相互の「交わり」でしょう。つまり、イエス様は「父と自分が互いに親しく交流しているように、自分を信じる人々も互いに親しく交わり一つになるようにと祈られたのです。
「彼ら(今の私たち)もわたしたち(天の父と御子イエス様)のうちにいるようにしてください」(21節)とイエス様は言われました。天の父なる神様と御子イエス様とが別々の存在でありながら「一つ」と言えるような親しい「交わり」をもっているのと同じように、それをモデルとして、私たちは互いに「主にある交わり」をもつように招かれています。
時にはひとりになりたいこともあります。すべての人と公平に親しくなるのは不可能かもしれません。誰にとっても苦手なタイプの人はあるのではないでしょうか。「交わり」は強制されるものではなく、自発的なもので、その動機は「愛」でしょう。神様は、私たちの「愛」に限界があることもご存じの上で、私たちが互いに「主にある交わり」をもつことができるように招いておられるのではないでしょうか。
3.「交わり」は何のため?(ヨハネの福音書 17章21節)
私たちが「主にある交わり」をもつのは、何のためでしょうか?具体的に言うと、たとえば、私たちが「ともに礼拝する」「ともに聖書を読む」「ともに祈る」「主を中心に語り合う」のは何のためでしょうか?それは、私たちがただ仲良くなるためだけでなく、神様の栄光があらわされるためではないでしょうか。「神様の栄光」というと、漠然としてしまいがちですが、具体的には「交わりの原点」である「父なる神様とイエス様との交わりのすばらしさ」があらわれるためではないでしょうか。もっと具体的に言えば、父なる神様がひとり子イエス様をこの世につかわされたことを、世の人々が信じるようになるためではないでしょうか。その意味でイエス様は「あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです」(21節)と言われたのではないでしょうか。
父なる神様が御子イエス様をこの世に遣わされたことによって、はっきりと示されているのは神様のすばらしい愛です。この愛と恵みこそ、神様の栄光ではないでしょうか。私たちの「主にある交わり」の目的は、自分たちの愛のすばらしさを示すためではなく、神様の愛のすばらしさを世の人々に示すこと、世の人々が信じるようになることにあります。私たちが「ともに礼拝する」「ともに聖書を読む」「ともに祈る」「主を中心に語り合う」ことによって自分が養われ、助けられ、導かれるのは当然ですが、それだけでなく、この交わりは外に向かって開かれています。私たちの家族や親族、知人や友人、教会の近隣地域の人々が、神様が遣わされたイエス様を信じるようになることにつながっているのです。
Ⅲ.むすび
「主にある交わり」「信徒の交わり」を私たちはこの礼拝で、このあとの聖餐において、ともに持っています。これからも毎週の礼拝と月1度の聖餐を大切にしましょう。
それとともに、礼拝の前後の時間は「主にある交わり」を持てる大切な時間です。みなが同じように話しかけ、同じように親しくなる必要はないでしょう。人それぞれの個性やその日の気分や体調などは互いに尊重されるべきです。まずは、あいさつから、そして少しずつお互いのことを尋ね合い、教会に来られたきっかけなどを尋ね合い、イエス様を信じてから自分がどう変えられたかを分かち合うような「交わり」を持てれば、イエス様はますますお喜びになられるのではないでしょうか。
(記:牧師 小暮智久)