2024年1月28日 礼拝説教 「歓迎されている」

聖書: 詩篇 139篇 7~16節

Ⅰ.はじめに

 職場や学校などで、さまざまな場面で、人々が自分をどんなまなざしで見ているか、歓迎するまなざしか、それともそうでないのか、気にかかることはないでしょうか。神様というお方は、私たちひとりひとりを、どんなまなざしで見ておられるのでしょうか。

Ⅱ.みことば

1.生まれる前から(詩篇 139篇 13~17節)

 先ほど、一緒にお聴きした『聖書』の中の「詩篇」という書物の139篇は、今から3000年ほど前、紀元前1000年ごろにユダヤの国の王様であったダビデという人の詩です。ダビデはこの詩で、自分を「私」と言い、神様のことを「あなた」と呼び、自分にとって、神様がどんなお方であるのかを歌っています。

 ダビデはこの詩で、何を言っているのでしょうか。特に、13~17節でダビデが驚きと感動をもって発見したことは、神様は自分を生れる前から歓迎しておられたということです。私たちが生まれた時、一番喜んだのは誰だったでしょうか。もちろん、それは母親であり、父親だったかもしれません。でも、私たちは自分が生まれたことを親がどれほど歓迎してくれたかを、生まれた瞬間の記憶としては覚えていません。「あなたこそ 私の内臓を造り 母の胎の内で私を組み立てられた方です」(139:13)とダビデは言っています。自分を造り、自分という人間が生まれるように組み立てたのは神様だというのです。

 私たちが生まれてきて生きることは、歓迎されていたのでしょうか。それが実感できないと、私たちは今日を生きることの誇りや喜びをもちにくいのではないでしょうか。たいていの場合、親は喜び、歓迎したでしょう。それ以上に、神様は、ご自分で私たちを母の胎内でお造りになったお方なのですから、私たちが生まれるのを、なおさら大歓迎したに違いありません。

 この歓迎は、いつからでしょうか?「あなたの目は胎児の私を見られ あなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々が しかも その一日もないうちに」(139:16)。神様は、生まれる前から私たちひとりひとりをやさしいまなざしで見守り、私たちの存在を歓迎しておられたのです。生まれる前から自分を歓迎しておられた神様の思いについてダビデは「そのすべては なんと多いことでしょう」(139:17)と感動しています。私たちは、自分が神様に歓迎されていることに気づいているでしょうか。

2.離れようとしても(詩篇 139篇 7~12節)

 私たちには、生まれてきたことの意味や目的がわからず、自分がこの世界で歓迎されているのか実感できずに不安になることがあります。ナウエンというカトリック司祭は『心の奥の愛の声』という本でこう告白しました。「自分が歓迎されていないのではないかというのが、私たちの最大の不安である。それは誕生についての不安や、この世に歓迎されないのではないかという不安、死の不安、来世(死後の世界という意味?)で歓迎されないのではという不安とつながっている。つまり、生まれなかったほうがよかったのではないかという、心の底に居座っている不安である」(p.116)。私たちがこの世に生まれることを歓迎された神様というお方の存在に気がつかないうちは、この不安は私たちの心の底から去りません。このお方に関心を向けずにこのお方から離れている間は、毎日食べて寝て起きて動いてを繰り返す意味や目的がわからなくなって不安やむなしさを感じるのは当然です。

 私たちがこの神様から遠く離れている時、神様はどこにおられるでしょうか?ダビデという人は先ほどの前の部分で、自分が神様からどんなに離れようとしても、神様はそこにおられると、詩的な表現でうたっています(139:7~12)。つまり、私たちがこのお方からどんなに遠く離れても、関心を全く持たなくても、無視していても、神様の存在に気がつかず、このお方を全然知らなくても、このお方は私たちのすぐそばにおられ、そんな私たちでも、いつでも歓迎しておられるのです。

 このことははっきりと、歴史の事実として示されています。それは神様がご自分のひとり子を、今から約2024年前の西アジアのユダヤ地方に、人間としてお送りくださった出来事です。それが、イエスと名づけられたお方の誕生です。このイエスの人生の、特に30歳からの旅の人生の始まりの時に、洗礼を受ける場面が「新約聖書」に報告されています。罪の全くないイエスが、なぜ洗礼を受けたのでしょうか。洗礼を授けるヨハネという人が戸惑ったほどです。しかし、イエスは洗礼をお受けになりました。その時に、どんな出来事が起きたのでしょうか?マルコ1:10~11を聴きましょう。天が裂けて、神の御霊がイエスにくだり、天から声がしたのです。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(1:11)。イエスが洗礼を受けられたのは、私たちのためです。神様から「あなたはわたしの愛する子」と、私たちも声をかけていただくためです。イエスを「わたしの愛する子」と歓迎した神様は、私たちがイエス様をキリスト(「救い主」という意味)として信じ受け入れることにより、私たちをも「わたしの愛する子」と呼んでくださいます。

 神様は、私たちをも神様の子どもとして歓迎していることを、歴史の中にはっきりと示されました。イエスが十字架で死なれ、葬られ、神様が3日目に復活させたという歴史の事実は、神様が私たちを歓迎し、このイエスを通じて私たちを子どもとして、神様の家族に迎えるためです。「イエスがあなたにおっしゃっていることは、『あなたは歓迎されていることを知れ』ということにつきる。・・・(天の父と)ご自分の家庭を私たちの家庭になさりたいのだ。そう、天の父の家に私たちの部屋を用意したいと思っておいでなのである」(ナウエン,前掲書,p.116-117)。

Ⅲ.むすび

 私たちひとりひとりを、生まれる前から歓迎しておられた神様の思いに気づくことを、神様は今も切に願っておられます。この神様に自分が歓迎されていることに気づく時、神様を歓迎し、神様と共に生活する日々が新たに始まります。今週、神様が私たちひとりひとりの存在をどんなに歓迎していてくださるかを実感するため、自分の思い煩いを神様にお話しして知っていただき、一日一日を神様と共に過ごしましょう。

(記:牧師 小暮智久)